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日頃の行動をメモ。消しゴムで消して作品へと昇華する前の、日々の下書き。
This is my dairy memo. These will be a work after brush up process. .




    2011.OCT

10/1 記憶される条件

曲が弾けるというのは、
ある条件が満たされたときに手があるパターンを弾くことを発動され、その繰り返しが曲に聞こえるという状態である。

頭の中で曲が鳴っていて、それぞれのフレーズの際に対応する手のパターンが呼び出されるのか、
その直前の手の動きから、対応するフレーズが再生されるのか・・・
それらはそれぞれまったく異なる方法で記憶されていることがわかった。

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現在取り組んでいる曲は3ページあり、2ページが終わった次に取り掛かった部分で、なぜか間違える個所があった。

下のシから上のソに跳躍する場所である。


何も考えないで弾くと、
シからその上のシに手が動いてしまうのである。

調べて分ったことは、
シから上のシへの跳躍が、前の2ページの中で1箇所だけ出てくるのだ。


つまり、前の2ページの中では、
下のシから上へ跳躍する弾き方が、上のシしか存在しないので、

 「下のシが来たら上のシ」
という
なんともぞんざいな憶え方をしているらしい、と分った。
しかし、
その程度の憶え方でなんとかなるのでそのように脳には記憶されていた、ということになる。

これはゲームプログラムの中での条件を設定するときにも似ている。
非常にローカルな条件であっても、区別ができるのであれば「勇者のレベルが3以下だったら遠くの城を描写しない(レベル上行けないから)」とかとんでもない条件でもいいのだ。もちろん、あとあと困ったときは、ちゃんと区別できる条件を新たに探すことになるわけで、それが違いの解像度を上げる、ということである。
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上記は前回(→HP)書いた中での禁則、ミスタッチの枝である。
あれほど
絶対間違えるフレーズは弾かない、と書いたのだが、
絶対に間違えないように繰り返すことはだんだん苦痛になり、
そのうち
 「何も考えずに弾きたい」衝動

にあがなえなくなるのだ。

この、 今すぐ果実(上手く弾ける)が欲しい心理
と、
将来の果実を期待し今淡々と訓練を重ねること
は、

人生に非常に似ているんだと気付いた。

生きているうちにいい思いをしたいのか、死して名を知られたいか。

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つまり、、
こういった「何も考えずに弾きたい」という一種の体からの欲求は、体への負担、つまり淡々と快感なく鍛錬する時間が成果なく長く続くと強くなってくる。そうなると、何かしらの接待によるモチベーション向上が必要となってくる。つまり、成果がなかなか得られないと大量のモチベージョン向上工作が必要となり、実現がさらに難しくなる。

なので、
 才能とは実現する速度

なのだ、ともわかった。

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さて、
新しく弾く場所は、言うまでもなく未経験の場所であり、パッと弾くときは過去記憶されている条件の上で指が動くだけである。
しかし近隣の成功体験から、パッと弾けるんじゃないかと油断し、さらに弾いてみちゃうわけで、そのときにミスタッチの枝が仕込まれる流れとなる。結果、現状最も苦労しているのは、その仕込まれたミスタッチの除去作業である。1ページ目が1週間そこらでできたのに対し、逆に時間がかかっている状態なのはそこなのだ。この後処理の苦悩がいい教訓になり、かつミスタッチ枝の除去ノウハウの蓄積になると期待している。

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今回の実験で、もう一つ試みていたのは、
譜面における音符の焼き付けである。

ある譜面をみたときに、それがドなのかファなのか、ということを、いちいち記憶に焼くことを平行した。

これまでは、あの土星のような分りやすい「ド」を見つけて、そこからドレミファ、みたいに指で数えるという原始的な方法をしていたのだが、これは、日本における九九の憶え方に近い。これに対する百ますのやり方、最近ではフラッシュ学習法だが、それを適用することにしたのだ。つまり、一つ一つの音符の視覚的位置イメージと鍵盤上のイメージを同時に記憶することを心掛けた。

譜面が苦手なうちは、あのピアノの鍵盤全部が譜面に対応しているような気がして、ウェーと思うわけだが、実際は、半音の部分(黒い鍵盤)は、楽譜の左にシャープ(#)とか記載されるため白い鍵盤のみ15コ程度であることがわかる。

15なら九九より少ない!というわけで、
その結果譜面が読めるようになった。これは今回の、嬉しい副産物である。



10/3 絶対と相対

物事には、相対的価値と絶対的価値がある。

例えば何か作品ができたとする。我ながら良くできたなあと悦に入る。これは絶対的価値だ。
一方で、
他人に見せたときに「えー、これつまんないよ」といわれたり「これはすごい!」といわれたりする。
それらが相対的価値だ。

世の中の流れが変われば好みも価値も理解度も変化する。つまり、相対的価値は変動する。
一方で
絶対的価値は揺らがない。

作品とは自分が長年選び抜いて積み立ててきた価値観および、人類がこれまで生きてきて淘汰され残ってきた価値観、それらが削り取ったものだから、その日その日の体調や気分に左右されない。
左右されるならば、それは思いつきとか人から借りたようなものの可能性は高い。

人間である以上、種の欲求、なるべく多くの他に触れ、より高い遺伝子を受取り、また同時に、自己の選び抜いた遺伝子を広めようという衝動を受ける。その衝動は、絶対的価値に相対的価値を持ち込もうとする。

よく死刑にしてもらおうとバスでたくさんの人を刺したりする若い人がいる。絶対的価値を問わず相対的価値を求める衝動は、人をここまでさせるのだ。これを誤作動と私は呼んでいる。

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上記の前提に基づき、
自分の絶対的価値と、相対的価値(評価)を明確に区分することが非常に大事となる。

今自分が持っているやりたい衝動は、自分のためか、他人に示すためのものか。
それを分類し、意識下に落とし言語化すれば、なりふり構わない衝動に左右されることがなくなる。

人間である以上、衝動は決して無くなるものではない。
だからこそ大事なのは、
それらを行使するかしないか判断できるレベルに一旦落としそれから行使を意識的に決めることなのだ。




10/4 イギリス組曲 途中経過

夜中に弾いていて
録音できそうな感じがしたのでテストで録音してみました。2箇所間違えてますが時間がないのでとりあえず;
(いずれきちんと録音します)

 ♪bachイギリス組曲 borree I : 111004_englishSuite_A_3_test.wav (5.8M)

ポイントは
・キーボードで、on/offに注意を払っています。長さ、タッチ、和音の音色の絡み具合など。フレーズに潜んでいるニュアンスを拾った結果、譜面にはない、伸ばしたり切ったりするリズムが生まれています。音楽においても、原曲がもつこういったリズムなり快感なりを注意深く読み取ったり時間をかけて探したり浮いてくるのを見極めたりすることは大事なことです。
・速度や強弱や流れが一定ではありませんが、緊張感を一定にしてあります。よってゆっくりになっても、テープをスローにしただけのような演奏とは違うことがわかるかと思います。逆に言えば快感を一定に保てれば速度や強弱が変化しても乱れないことになるので、これが最近私が会得した境地で、つまり楽器や方法はなんでもいい、ということに至ります。なおドラム演奏においては、叩かずに済む(快感を出す)方法は無いか、いわば無舌、が現在の課題です。演奏後「え!叩いてなかったの!」と言われると理想ですね。殺意を感じるとか、場の緊張した空気ってありますが、あの無音を演奏する感じです。
・この曲のフレーズがより際立つよう音色調整してあります。弾いたときにひっかかる、ように音色をいじります。ひっかかるとは、音色が違うだけなのに同じフレーズがスルーせず、よりスリルを感じられるように際立たせる、そういう音色です





10/8 富田勲講演

今年のシンセフェスタは、なんと、
シンセサイザーの巨匠、富田勲氏による、
ドビュッシーなどで多用しているトミタ口笛の音色、あれを、 その場で ムーグを配線しての実演だった。



ムーグってどうやって使うのか?ということは長い間のナゾだったのだが、

ご本人の試行錯誤の話の中で、

 「最後に繋いだところの出力がOUTだとなかなか気付かなかった」

で一発でわかったのだった。なるほど、ギターのエフェクタを繋ぐ感じなのだと!

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実際に口笛を作る過程でも、
松武さんへの指示で、
 「そのノイズの「前」にフィルターかまして」

という指示を聞いて、なるほど、現行の様々なエフェクターがBASICだとすれば、
ムーグはマシン語なのだ!と分った。好きな場所に好きな位置に好きなエフェクタをかますことができる。
これは確かに面白いわ!かゆいところに手が届く構造だ。

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何よりも感心したのは、もう80にも届く年齢の彼のチャレンジ精神だった。

天文学では知られているとのことだが、
夜明けのときに、太陽の黒点が発する電磁波?がある。それは
「DAWN CHORUS」つまり夜明けのコーラスと呼ばれる

会場でもその音が流されたが、キラキラして星屑が降ってくるような音だ。

その音と、セッションしようというのである。

山の中にスピーカを並べ、演奏者が待機して夜明けを待つ、という・・!

私も以前は犬を借りて犬とセッションしようとかあれこれ考え
ペットショップに行ったら非常識扱いされた(笑)ものだが、
スケールが違う!いやー勉強になりました。




10/13 発火の枝を仕込む


今回のイギリス組曲の booree II の中で、3音符分のシンコペーションの場所があり、ここが脳にプログラムしにくく結構時間がかかった。


ミスタッチ枝の除去方法:
 ・問題の個所だけを毎日左脳で練習する。つまり意識的に運指を確認しながら絶対に間違えないように弾く
 ・上記を3回程度さらう。これを淡々と毎日行う
 ・上記が終了するまでは、全体で通して弾かない
 ・手癖が固定化し、どうしてもミスが頻発する場合は、使い慣れない別のキーボードでの練習にする

問題の個所の前の、すでにできているフレーズからスタートし、そのフレーズに、次は注意すべき個所だよという記憶を添付すると、通して弾いたときに、差し掛かったときに、左脳で訓練した記憶に発火することができる。

私の場合は、最終的には譜面を見ないで弾くので、直前の自分の運指や鳴っている音に対して、続く操作を発火するトリガーが仕込まれていることになるし、クラシックなどのコンサートで譜面を見ながら弾いている人たちは、目で追っている譜面の先が発火となっているはずである。

ミスタッチが頻発している3箇所ほどだけを毎日続けていて気付いたことがあった。

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当初、
ある個所では、

 最初何も考えずに弾いて、
 あ「いかんいかん」とちょっと意識して弾いて、
 それでも間違えるので、腰を入れて弾いて成功する

という3段階を、毎日続けていたことに気付いた。つまり、

 「何も考えずに弾いて、間違えて、ちょっと意識して弾いて間違えて、次にしっかり意識して成功する」
という シーケンスを訓練していたことになる。思い返すと毎日まったく同じ繰り返しだったことに気付き、ある意味感心してしまった。

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先ほどの3音符シンコペーションの個所についても、
すでにできるようになったのにも関わらず、
その個所に差し掛かると、「ヤだな」という不安が湧いて来ていた。

しばらくして気づいたが、まったく同じタイミングで、まったく同じ感情なのである。

つまり、
フレーズを弾くと次のフレーズの操作が発火するのと同じ仕組みで、不安感情の再生も発火していることがわかった。

思えばこの不安は、最初左右統合したときの不安が直前のフレーズに添付している状態であり、フレーズに差し掛かる前に発生するから現在の弾いている完成度とは何の関係もない。しかし、最初に弾いたときの不安をフレーズに添付したことが、あとあと呼び起こす原因になっているわけである。しかも毎回呼び起こされるから消えるどころか強化されていく。

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ここから導き出せることは、
練習の時に不安とか苦手意識を浮かべると、それが、フレーズに組み込まれてしまい、毎回再生され集中を妨げる、ということを意味する。
返せば、
勉強とか、いろんな学習の際に、最初に感じる感情を、組み込まないことが大事と言える。
もっと言えば、
できない状態に体面したときに「ヤだな」とか「苦手だな」と思うこと自体、
できない状態に対して発火してしまう、すでに組み込まれた、ミスタッチの枝と言えるのである。

なぜなら、苦手意識と、現実できるかできないかは、上記の通り、まったく関係がないからである。




10/20 すでに編集されている状態を作る

今日わかったことだが、
文化風習とは、人間がソフトウエア上に淘汰の末磨いてきた生き残るための行動の集大成である。

例えば、
生演奏でのレコーディングを行うということは、身体的制約や疲労、達成までの鍛錬の困難さをバイアスにかけ、無意識における高いレベルの編集向上を促す行為となる。

つまり、創作者は、出したものをわざわざ編集するのではなく、
すでに自分の中にインプットされ様々な過程の淘汰を経て、「すでに編集されている」状態を持つことが大事となる。

未完成のものを安易に広げ、現存する自前の左脳でのみ編集しようとする行為は、
年月を経る、一般的普遍的な検証に晒されない点でも弱点を持つことになる。





10/23 灰野敬二+亀川千代+東郷生志@東高円寺 UFO club

死闘



その瞬間に必要と思われる音を出す。そこに自分の嗜好はない。。
灰野さんの求める速度、強さ、大きさに対し、瞬間瞬間に応じることはできるのだが、それを長時間持ちこたえる体ではないことは先日合わせた時(リハ→HP)にわかっていた。もともとドラマー向きの体ではない。しかし求められれば応じてしまうだろう。だから当日までは「終わったら死ぬんではないか」と生きた心地がしなかった。

実際演奏後半途中で右手ひじ内側が抜けたようになり「ああこれでドラマー人生終りか」と覚悟したが、しばし左手だけで8ビート?を叩いていたら知らぬ間に直った。気を抜いたら今度は左手ひじが同じ状態になった。
終わってその話をしたら、灰野さんは「ステージで足が5回ほどつって寝ながら弾いたことがある」と、なんかつり自慢合戦になった(笑)

逆に、小さい音、遅さ、音色、を求められた場合にはしっかり応じられたように思う。

とにかく死ななかったことだけは嬉しかった。まだやりたいことは死ぬほど(笑)ある

唯一気がかりは、
今回私がドラムを叩くこのトリオに、3000円もの大金を支払って多くのお客さんが来ているその演奏に、彼らが期待する演奏ができたか、もしくは期待と異なるがいい演奏 ができたか、そればかりが気がかりだったが、トータル演奏時間は100分も至り、チェック用の録画も55分で切れたため後半のデバッグができていない。私の周りでは衝撃的だった、凄まじかった、という反応が多かったが、全員に何かしらの満足が与えられたのか、もちろん全員が満足する演奏など存在しないのだが、そればかりが気になって仕方がない。

「言葉ではなく体で」という灰野さんの言葉どおり、ライブ後は体が別の何かになってしまったようで、以前の耐性が復活したかのような感触もあるのは面白い。ケモノモードである。




10/26 ベクトル

世界に一つだけの花、 という歌が流行ったときに、私はこの歌がすごくキライで、
ただ、歌詞で歌われている、
オンリーワン、ということに異論はまったくないのだが、
なぜか
これが流行る風潮がイヤでしょうがなかった

今議論を呼んでいる、大阪教育委員会の橋下氏による教育マネージメント、の記事を読んでいて、
これがなんだかわかった。

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つまりオンリーワンであること、
自分なりの花を咲かせること、
それら自体はいいのだが、

現状そのままでいい、
とは言っていないのだが、世の中的には、今のまままったりでいいじゃないかという感じなのだ。

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相対的に見て、能力的に劣る、

それは個体差があるんだからしょうがないことで、
大事なのは、

 それぞれの努力、

なのだ。それぞれがそれなりに努力し自分の目標に向かって日々鍛錬する、ということだ。

それが、今のままでいい、にすり替えられている。
そのすり替えを推奨しようとする思考と風潮、それには「どうなの?」と私は思うのだ。

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橋下氏が言われている、大阪府が全国テストで最下位であった、ということも、
教育ということを何の尺度で測るか、ということであるように思った。

 過去の自分よりも大きく前進させるか。
 前進した結果が、世の中でどの位置なのか。


それぞれ別の尺度のように思う。


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歌自体はいい歌詞だと思うのだが、それが今間違って受け取られる時勢なのだ。

これは「バカの壁」で養老さんが

 読んでいる君たち自身がバカなんだと気付きなさい

と諭しているのに、読んでいる人たちが

 自分以外はバカ

と受け取って大ヒットしたことと非常によく似ている。

他人を下に見なければ自分が保てない。
そういう瞬間もあると思う。
だがそれは
あくまでも仮の位置であり、やはりいつかは上昇していく、そういう意識は常に持つべきだと思う。例え今思えなくても。。自分の向上は自分だけが知り結論を出す、まさにオンリーワンの評価、なのだ。




10/27 コンピュータの解決すべき問題

先日亡くなった小松左京氏の書斎の写真が新聞に載っていて、
現存するコンピュータにおける問題が明確にわかった。

朝日新聞夕刊10月27日

今や教科書をすべて電子化する米大学もある時勢である。
しかし
創作活動を推奨する私としては、検索手段、つまり、データへのアクセスの手段を相手に委ねることはアカンと思っている。

この書斎を見れば一目瞭然だが、
あ、あれなんだったっけな、と思った瞬間、どの位置のどの本のどの位置にそのあれが記載されているかは、瞬時に手が伸び、ものの数秒で閲覧することができる。

また書斎に置かれる書籍は、その分野をより代表する一冊に集約されていく淘汰を経る。

だが、これがタブレットなどに入っていると、「検索しないと」いけない。これはすごく時間がかかることだし、何よりも検索できる状態、つまり文字なりタグなりになっていないと引くことができないのだ。

また書籍も膨大な量が収められ、かつアクセスできるため、事前の淘汰がなく、優れたものが浮いてくる構造になっていない(みんなが推奨するものが自分にとっての優れたものではない)。ハードディスクレコーダーが一杯になってうんざりするアレと似ていて、事前に選択しないで収めると洪水になり、埋もれてしまう。ICレコーダがあるのにも関わらず、取材時にメモしている記者はこのことを知っているのだ。あとで選択するなら今やる方が早いと。
つまり、
アナログでは淘汰なり選定なりが事前にすべてなされていたのだが、
デジタルになったとたん、アナログが担っていた淘汰と選定を、すべて自分でやらなければならなくなってしまっているのだ。しかし現状の検索やシステムは非常に単純なものしか与えてくれていないし、例えばGoogleの検索システムは一企業の価値観でしかない。
これは、ハイビジョンになったとたん、細部まで自分たちで作らなくてはいけなくなり作業が膨大になっていることと無関係ではない。

単純な検索システムでは、なんとなくの検索ができない。
今自分が思い浮かべている、アレ、なんとなくの、記述しようがないがわかっている、あれ!が。

なんとなくの検索ができない状態で、
すべてのデータを向こう側に収めてしまう恐ろしさ。

すべてを手元に収める快感と引き換えに失うもの、それを知っておく必要があるように思う。
発想などを必要とするモノ作りな人達は特に。。

検索(思考)したときに、何がresultするか、つまり何が頭にパッと浮かぶか、それこそが人それぞれの発想であり独創力だ。しかし頭に収めないで外部に記憶するようになったなら、どう検索するか?こそが発想力となってしまう。もちろん私はそんなところに体重をかけるわけないが。人類文化キケーン!

この検索の問題は、実はコンピュータ全体の大きな課題であるとかねてから思っている。
無意識検索が可能になって初めて、データはむこう側に収める価値が出るように思うのだ。。まだ早い!




このページでは私の成果、発見のみ記述しております。