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このページでは97年頃の開設以来、
創作活動について、オリジナルを追求する活動について、
その支援となる情報や精神を記載してきた。
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モノ作りとは、特にゲーム制作とは、
別に生きる上でなくてもいいもの
だ。
80年代私らを魅了した多くのアーケードゲーム、それらはスタンドアローン、つまり一人遊びだった。
一人遊びができるというのは、みんなで遊ばなくても遊べる、ということで、
それは、普段、コミュニケーションが充足されていることが前提となる。
どうでもいいことを面白がる・・・これは「こんなところに下水道が!」といったタモリの精神にも近い。
格闘ゲームが流行ったあたりから私はアーケードから離れていくが、
それは、ゲームそのものよりも、コミュニケーションの面白さになっていったからだ。
どちらかというとスポーツの面白さに近い。
だからネット対戦なんかは、韓国では、eスポーツと呼ばれていたりする。
もちろん、ゲームの要素が失われたわけではないが、
私らが80年代に魅了された、
ゲームが、もしかして絵画や小説や漫画のように、アートとして表現として美しいものになりえる、という期待がすこしずつ失われていく過程だったように思う。まだ私は関わっている以上、その可能性を追っているが、残念ながら今やゲームは、ビジネスのツールの一つに近い。
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斬新なゲームを作る、ということは、
ただ単に新しいゲームを作ればいいということではない。
ゲームは、それをプレイしてくれる人がいて初めて、成り立つ。
それが今回の震災で、
コミュニケーションの充足よりさらに前段階、
最低限の生活基盤、さえも危なくなった。電気がないともう全部アウト。
震災前は、精神的余裕がない情勢だったが、
今度は物理的余裕さえ危なくなった。
斬新なゲームが成立するための大前提である人々の状態、
これがどんどん後退し、実現がどんどん困難になりつつあるのだ。
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私の期待する世界とは、
斬新なゲームが多く出現し、
そういう発想もあるのか!それならばオレも!という活気のある状態だ
BAKUMANで言うライバル、みたいな感じ!
XBOXのインディーゲームにはその片鱗が見えつつあるのは嬉しい。
そういった世界の確立には、
まず生活が充足し、
つぎにコミュニケーションが充足、
そういった積み重ねの上にある、
ヒマをもてあますほどの精神的経済的余裕のある社会が必須となる。
景気というのは基本的に外貨獲得によるものと私は確信しているので、
輸出や観光が不振になると、これからボディーブローのように経済にダメージが来る。
目の前のことに忙殺されるだろう。しかし、
近い未来に戻るであろう余裕のある時代までに、
漫画や音楽や小説や絵画がすでに達成している芸術的表現にゲームが再び向かえるよう、
80年代から細々と繋いできたゲームの遺伝子を途切らせることのないよう、
広くモノを見聞きし、人に伝える技術を磨き、やるべきを積み重ねる、これがゲーム製作者の責務だと思う。
幸か不幸か
今、
自分たちがやっている一つ一つの意義を今問われている。
これを機に意義を姿勢を考えるいい機会だと思う。
「貴方はゲーム(音楽、小説、映画、コンテンツ、その他でもいい)を作ってきた。それは非常時にポンと捨てることのできる、そんな(普遍性のない)ものを作っていたのですか?」と。。
戦争を体験しなかった私らは今、擬似的に戦争体験をしているのだ。
人々が、どうでもいい、くだらないゲームを面白いと思える充分な時代がまた来たとき、
そのとき必要になる火を絶やさないよう、鍛錬と制作を続けることとする。
現在日課としてやっていることの一つとして、
キーボードによるクラッシックの鍛錬、がある。
実はピアノは、若干不正確でもまあ聞ける演奏になるのだが、
キーボードの場合は、手を離すと音がブツッと切れるため、
鍵盤を押さえるタイミングと同じくらい、離すタイミングにも気を使う必要があり難しいし、
あいまいに弾いていた場所が浮き出てくるので、問題点を把握しやすい(デバッグしやすい)
こういった演奏の練習には、実は非常に大きな落とし穴があることに先日気付いていて、
それは、
練習することで、練習という状態に慣れてしまう、
という事態。
つまり、
「これは練習だから」
という意識でその演奏を許容することに慣れてしまうのだ。
演奏そのもののスリルを問わなくなり手の駆動だけに注意を払うだけになる。
演奏というのは、経験の、脳への蓄積からの出力なので、
その演奏に対する本気演奏と練習演奏の比率がそのまま本番での演奏に反映されてしまう。
本来、センスというのは、
ダサいもの、納得がいかないものに対し嫌悪し、一刻も早くその状態から抜け出したい、という衝動こそが
それらを排除し、より高みに向かうものと私は理解している。
よって、
その練習の、一瞬一瞬にスリルが感じられるように演奏を心掛けることこそが、
目指すスリリングな演奏に向かうことになる。
よって、練習に怠性が混じり手クセで弾かないよう注力するし、
集中力が切れて手クセになったら練習を打ち切るようにしている。
こういった鍛錬は、鍵盤の練習という意味もあるが、
広く、
普段何気なく行使されるセンス意識の鍛錬という性格の方が大きい。
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漫画なんかでもそうだが、
絵が上達した結果、絵に緊張感を問わなくても絵が描けてしまうことで残念な感じになる惜しい方を結構見てきた。上手いけど何もない感じになっていく。絵が上達したらもっとも注意しなくてはいけないことだ。
問うべきは、それそのもののスリルのみである。
震災から1ヵ月経った。
東北では津波がすべてをさらったが、東京では精神的な基盤がさらわれた。
一時的ではあったが、食糧難、停電による日常活動の停止など、いわば戦時下の緊張感が張り詰め、サバイバル下でどう生きていくのか、という難題がつきつけられた。
自分たちの豊かな生活が原発によって支えられていたことが停電でつきつけられ、そして、今福島で多くの人たちが原発事故で避難している、その加害者であることも薄々感じつつ、電気なしでは何もできないこと、電気を基軸にした豊かな生活なしでは何もできないその現実。。おそらく多くの人々が途方に暮れたし今も暮れているだろうと思う。
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しかし、人間できることは限られている。
マネジメントの父、P.F.ドラッガー氏の書籍※1にも
「組織の目的は、凡才をして非才をなさしめることである」
と説かれている。
「天才は稀であり、当てにはできない。凡才から強みを引き出し、それを他者の助けにできるか否かが、組織の良否を決める」
と続く。
体が弱いのに、ボランティアに行っても足手まといになるだけなのである。
自分の強みは何か。それを問うべきである。
先日演奏に行ったライブハウスでも、共演の若者が「こんな時勢に音楽やっていていいのだろうか」と不安そうに話していた。
もし、今音楽をやるべきなのだろうか、と思ったのなら、そう思う理由を炙り出すべきである。
そして一つ一つ弱みを消していく。そうした地道な思索と実践の先に、音楽が社会貢献に繋がる道があるだろう。世間の風に押され、今すぐ効果が見えることばかり、人に示せることばかり追っていても、そんなものは偽りである。
いままで豊かさの中であいまいにしてきた、音楽(その他でもいい)をやる理由、それを今こそ明確にすべきなのである。そういう過程を経てこそ、音楽や芸術やくだらないもの等々、衣食住と関係ないものが人類の歴史の中で長く生き残ってきた理由があるはずだ。
統一知事選も現職回帰をした。この震災後の時代に、本当に仕事ができるのか?本当に任せられるのか?問われたからだ※2。つまり、もうオアソビは終りなのである。真摯な姿勢にこそ魂は宿る。自分の仕事をすべきである。人のことをあれこれ言ったり聞いたりしているヒマはない。一生をかけた仕事はそれほど簡単に成し遂げられるものではないはずだ。。
このところ痛感するのは、
発想においては「位置エネルギー」が大事だ、ということ。
いい考えを発想しようと頭をひねっても、まず出ないし、出たためしがない。
それは、
発想したいという目的
と
発想している場所時間
が
同じ位置にある、つまり「位置エネルギーがゼロ」な状態であり、
私は
そこに
「高低差」が必要なのだと思う。
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よく言われる、風呂で浮かんだ、トイレで浮かんだ、ということから、
長風呂したり、トイレにこもったりするそそっかしい人が居るが、
その場合だと、アイディアを出すことが目的にあるから、位置エネルギーはゼロ、出るわけがないのだ。
つまり、
今現在、風呂に入ることやゴハンを食べること、他の仕事、など、
アイディア出し以外が目的であることに専念すると、
優先順位が低くなり、高い現在との高低差ができる。
高低差ができると、高いところから低いところに流れるようにアイディアが出やすくなる。
多くの人が経験していると思うが、気付くとそのことについて考えているという状態になる。現状の高さから「逃げるように」意識が流れ、その下のレベルに思考がシフトする。現状の高さだと「義務」だが、逃げた先は義務でなくなる。つまり高低差を設けるというのは、別の高さを用意することで、アイディア出しを義務から逃亡先にシフトさせるロンダリング技術といえる。自分で逃げた先なんだから喜んで考えるというわけ。
ただ、大事なのは、その逃げた先がアイディア出し、であること。
テレビやインターネット、ゲームなど、意識を完全に占有され奪われるメディアは避けないと、
基本的な意識が、欲しい商品とかコミュニケーション対応とかにシフトしてしまい、思考がアイディア出しに逃げて来ない。気付けば浦島太郎※3、メイン軸を奪われないよう注意が必要なのだ。
以前から書いていることだが、
アイディア出しとは、
求める快感を実現するために適切な方法を見つける脳内検索に過ぎないので、
検索する時間と、新たに検索する要素の追加、が多ければ達成しやすくなる。
ただ、その検索が、義務だとうまくいかないので、どう自発的にするか、のお膳立て技術が今回書いていることです。
私の場合、
例えば、図書館で新刊やまったく関係のない本を眺めたり、
ブックオフ、ジュンクなどを散策したりして、ふと浮かんだりする。
つまらない状況に置かれたときなどにも意外に浮かぶ。高低差があるからだ。
村上春樹氏がインタビューで
「とにかく一日まったく書くことがなくても、書かなくてもいいから机の前に一時間座っていなさい、とチャンドラーも言っています。その間は、本を読んだり、クロスワードパズルをしたりしていては駄目だと。ただじっとしていなさい。何を考えてもいい。ただ、じっとしていなさいと」
と
引用してますが、
これなんかも、じっとすることで、高低差を作っている。他を禁じているのは軸をズラさないため。
まあ軸がズレないことが自分で管理できるなら、他は逆に刺激(要素追加)になると思うけれど。
音楽なんかでもそうですが、
音の小ささというのは絶対的なものではなく相対的なものなんですよね。直前の音を大きくすれば、次の音はそのままでも小さく聴こえる。だからわざと大きく叩いたり小さく叩いたりして判りやすい差を作る。
つまり、
目的を達成するために、その周辺との高低差を敢えて作る。
手品の技術でも言われますが、
「木の葉を隠すには森の中」
つまり、
砂漠に一枚落ちている木の葉を隠すには、そこに森を作ってしまうとよい
という
基本的な発想と非常に近しいと言えます。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
※1
P.F.ドラッガー「マネジメント 課題・責任・実践」上田惇生訳
※2
自分がガン手術を受けるという想定をしてみればわかる。いくら自分が好きでも、芸能人に執刀を任せないだろう
何を選択したか?ではなく、どれだけ真剣に決定したか、が重要なのだ
※3
飲めや歌えや楽しく過ごし、気付いたらおじいさん。恐ろしい逸話ですわ
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