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ゲームシステムを構築する作業には、
不特定多数である遊び手をうまく誘導することを見越して設計する技術、
とは別の、
作り手側の多数をうまく誘導するという、
同じく「政治的な技術」が必要だ。
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Aというゲームシステムパーツがある。
そして
Bというゲームシステム。
そして、そのAとBをうまく生かしたり、つないだりするためのCというシステムをようやく発見できた。
しかし、そのCを入れると、
Aのある部分や、Bのある部分と矛盾が生じてしまう。
そこで、
AやBやCのそれぞれの存在意義を失わない、スマッシュな解決策を考案しなくてはならなくなる。
そして無慈悲に次々追加されてくる、アイテムE、新システムF、NPCの挙動Gも、矛盾について黙ってはいない。
この状況は、
よくある業界の取りまとめなどで見られる風景となる。
「それ入れられると、こっちはこういう問題がでるんだよ」ギャーギャー
二人ならまだ話し合いが出来た。しかし三人、四人と増えれば増えるほど難しい。
自分の意見を決して曲げない、強引なツワモノたちを、どうまとめるのか?
ということになる。
・・・政治だ!
政治とは、
「オレが!オレが!」の人達を、どうなだめすかし、最終的に全体がうまく機能する方向に誘導していく技術といえる。誰かが我慢するなどありえない。
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たくさんのそういったツワモノ(面白いアイディア、素晴らしい解決策)が増えれば増えるほど取りまとめは困難を極める。
しかし、
それまで、沢山の手順や、たくさんの説明を必要としていたこと
を、
たった一言で説明できてしまうような、
何の説明もなしにパッと人が操作できるような、
複雑で大量な要素を、簡単に楽しめるような、
そういう
操作方法やルールや機能的画像は、
美しいし、多くの人を魅了する。
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しかしそこに至るまでの過程・・
苦労してイメージし設計し検討したUIを、プログラムし、デバッグした。
しかし実機で動かしたとたん「ないな」と判ってしまうともう心を鬼にして捨てるしかない。
捨てるにしても、
それが今実装したばかりならセーブポイントに戻ればよい
が、
組み込んでしばらく経って周囲と馴染んでいたり、根幹となるシステムだった場合は、
もう、
脳の中のニューロンの、複雑にあちこちに伸びている軸足を
一本一本、
傷つけないよう、
細心の注意を払いながら剥がしていくような作業となる。
うっかり剥がし損ねると後で腐り、他の部位まで傷つけてしまう。
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また、
薄々気づいていた
スマートでないがとりあえず動いているようなシステムやルールや機能画像は、
やはり
のちのちに症状としてより浮き彫りになってくる。
先送りでしかなかったんだなあと痛感することしばしば。
そして
自分の中ですらそうなのに、
さらにチームで作っていると、人間関係やお互いの価値観の部分で起こるぶつかりは、もはやカオスである。
そういった、
完成に至るまでの磨きこみや労力、は語らずとも見れば判るものだし、
それこそが価値と受けとめることのできるゲームを、私は信じ守り鍛えていくし、同じような同志を歓迎する。
いろいろ試作を改良しているうちになんだかわけがわからなくなってきた。
そこで、
ものは試しとばかりに、
膨大な資料の中から試作に近いジャンルのゲームを掘り出してぐわーっと遊んだりした。
こういう意図的な遊び方はやったことがないのだが、
とりあえずやってみて判ったことは、なるほど地面ができるんだな、ということだった。
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以前、古い知り合いが、
「練習をしない方がドラムが上手くなる」
と主張していて、そいつはどうかなー?と思っていたのだが、
実際、
パーカー相手に毎日ドラム練していた頃よりも、
ちょっと練習しなくなった頃の方が、旬な感じの、食べごろな感じな、いー感じのドラムになることに気づいてきていた。
だが一方で、
震災とかあって1ヶ月以上ドラムを叩かないまま、ひさびさにリハ入りしたとき、
あまりにドラムが草ぼうぼうなことに愕然とした。
どうやら、
練習をしないことで上手くなるわけではないらしい、と。。
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スタジオで練習をする。
練習をするということは、なにかしらの練習メニューがあるわけで、筋トレでいう腕立て100回とかみたいなものだが、
もちろん腕立て技術の鍛錬が目的じゃあない。
しかし、練習したてのときは、その練習フレーズなりパーカーに合わせる感覚がびっちり脳に張り付いている。
その状態でビバップから50年は過ぎた現代の人間と合わせようとすれば合うわけがない。
そこで
「練習しない」が生きてくるのだ。
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記憶に新しい事例は、すべてが脳に残存しているが、
それが経年を経て、
自分にとって関係のないものが殺ぎ落ちていき、
最終的に自分が好きなものだけが残っていく。
自分の好きなものというのは、自分の中で体系化(電気が通りやすい)されているものなので、
コントロールしやすいものだ。それで上手くなった感じがするのだろう。
逆に、
丸暗記したもの、は、自分に組み込まれていないものなので、
つまり、環境や現状に対応できず、ゴチゴチにシーケンシャルに出力することしかできない。
回りは音源のように演奏してくれないわけで、結果的にハーモニーせず、それで下手に感じるという算段と言える。
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練習しないとは、
外界と断絶する、つまり鎖国である。
ゲーム制作においても、
オリジナリティを培養するという意味では、ある程度の鎖国はすごく大事なことだと思うのだが、
かつて日本が
鎖国下においても、
長崎にオランダ村を置いていたり、
海外の学問に対して、人材を派遣していた
ように、
開いたり、閉じたり、
呼吸をするような感じが大事なのだろうと思った。
センスの良さと言えば、
なんか
芸術家の家で、小さい頃からアートに触れて生まれ育ったか、
とか
天性の素質である、
みたいなことを疑いもなくよく言われている。
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しかし、
脳の構造から言えば、
センスとは才能ではなく、
何を見聞き体験してきたか、の平均値である。
ある分野に長く触れていると、慣れてくる。
慣れてくると、それまで同じに見えていたものの、差異や優劣が見えるようになる。
従って
著名な絵画を毎日眺めていれば、全く見たことのない別の絵画を見たときに優劣が判るようになる。
B級グルメを毎日食い倒していれば、マズいものの中の違い、面白さが見えるようになる。
どんなものにも、面白さもつまらなさもある。それは順列組み合わせ上発生するものだが、違いは、それが一般的に認知されやすいかどうか、評価されているかいないか、ということでしかない。
つまりセンスとは、ある分野への没頭の結果、と言えるのだ。
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よって、センスは、、
後から構築することができる。
実際
私はそれを音楽や、その他にも現在平時行っている。
理解しようとせず、無批判に、
ただ眺めたり触れたり聴いたり居たりすればいいだけだからラクチンなものだ
が、
ジャンクに浸せば、ジャンクなセンスが研ぎ澄まされる(笑)し、
歴史的に淘汰されてきた普遍的なものを選べば、他人に認知されやすくなり、報われる感じがする。
報われるとかどうでもいいなら、望む分野にずっと浸せばよい。
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毎日自分の脳をある分野に浸していると、
それが日常風景となる。
そうすると、自分の演奏、他人の演奏、言葉、表現、などを見たときに、
あるはずのものがない
というもどかしさに気付くことになる。
人は一度でも手にしたものは、元に戻そうとするものだ。
だから、あるはずのものを埋めようと、あれこれ画策する。
それが練習に拠るものだったり、実現するための技術鍛錬だったりへと誘導される。
その意志こそがセンスであり、
それが
表現へと繋がっていく。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
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