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直江さん企画に鳥を呼んでいただいた。黄金町の視聴室2でのライブ。
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以前のjetRobotの時もおちょこさんに絶賛されているように、鳥はアコースティックの環境の方がその特性がより発揮される。タイガもステージの下で演奏していてベースアンプが耳のちょうどいい距離になっていて理想的で(ベースアンプの前に立つ通常のステージでは低音は聞こえにくいがゆえに轟音になりやすい)なかおさんも音量制限を言われていたが後半押さえきれずに音量が上がっていくその緊張感がすごく良かった。問題はとある曲のリズムチェンジで、それまでかなり有機的になかおさんの音に脳を繋いでいたものがブッツリずたずたに分断されてしまい後半ガタガタになってしまった件で、やはり曲の入りも切り替えも、なかおさん主導でやらないとダメだなと痛感した。これは私の長所でもあり弱点でもあるのだが、他のメンバーとの音的な繋がりに全体重と全神経をかけてしまうため、掛け違いが起こると空中分解してしまう。もちろんそうならないための方法もあるが、もし私が観客だったなら、自分勝手な演奏も安全運転な演奏も見たくはない。お前の人生の、今最高のギリギリを見せてみろ!と思うね。
大学くらいに組んでいた 私がベースのバンドの再結成ライブ。数年に一度ほど始動しかかっては解消というのを10数年単位で繰り返してきたのでようやくという。このあたり私のゲーム制作錯誤にも似ているが、どうあれ辛抱強く やるべきをやり風を待つしかない。
しかし当日リーダーが風邪で声がガラガラで、直前のスタジオでどうカバーするか頭を抱える。なにせベースはすべて歌にあわせているので単独では成り立たない。だがどうカバーするかを考えはじめている自分に気づく。日頃ライブで鍛えられているゆえのプロ意識?がすごくある。
なおスタジオのベースアンプが私の好きなアコースティックだったが、ライブ音場と差をつけるため、わざと音をこもらせ聴こえにくくしてリハをした。これはバズリズムでJUJU氏が「スナックで歌うことで野生の勘を失わないようにしてる」と語っていたことからヒントを得ていて「恵まれた環境にいつも浸っていると、なくなったとき歌えなくなるのを防ぐため」とも言っていたことから。そういう意味では、今回メインボーカルが歌えなくなった状態というのも、まさに恵まれた環境(メインボーカルに頼っている)への示唆ではないのかと思えた。ボーカルとは天性、つまりgivenなものだと思っていたがそんな事言って避けてる場合じゃないなあと痛感した。何事もやればどうせいずれできるんだし!
元々メインボーカルの声質を残しつつコーラス感だけ出すようコーラスを付けていたので、PAに音量を上げられてへっぽこなコーラスが響き渡ったのには閉口。きちんとバンドがコミュニケーションをとるためには、リハ時に調整したらバンドに任せてあとはいじらないように言っておく必要を感じた。また今回はボーカルにリバーブ等がかかっていたのは風邪声なのでしょうがないが、通常はミュート感を出すためにもノンエフェクトが望ましい。拾ったほかの楽器の音にもリバーブがかかり不必要に空間に残ってしまう。
ドラムではいきなり即興ライブでも何の躊躇もないわけだが、ベースは場数がないため今回も心配していたが、ボーカル風邪という非常事態をどうカバーするかに懸命でそれどころじゃなかったのはある意味幸いだったのかもしれん。
通常はライブより数日前にスタジオ個人練を入れる。なぜなら練習の次の日はなんらかの身体的疲労などがあるのでかならず一日は空けるのが通例なのだが、風邪を引いてしまった関係で今日になってしまった。
実はタロティカ曲をベースやドラムで演奏するという奇抜な行為の撮影もやりたいと思っていたのでスタジオ入りするついでに撮影も行うことにした!思い立ったが吉日というね!
個人練の意味は、頭の感覚と手足を繋ぐ、ためである。脳内のシナプスは使わないと細っていくが、鍛錬や動作などの記憶はそうそう消えない(例えば自転車の乗り方、運転の仕方)わけで、それらへのリンクを戻す作業が居るのだ。
ヒゴヒロシUNIT@阿佐ヶ谷yellow vision
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ヒゴヒロシさんから、いつものドラマーさんが叩けない体になってしまい急遽ドラムを頼めないかと依頼され引き受けたのだが、まったく一度も合わせたことのないunitでいきなり本番である。ヒゴさんはフジロックに渋さ知らズなどでステージに立っているプロであり、つまり私がどうきちんと役割を果たせるか、ということである。
初めて演奏を聞くエレクトロ演奏のULUさんとの繋ぎ合わせが勝負なので、リハでどういう音を出されそして私が返したドラムにどう絡んでくるのかなどコミュニケーションを必死に確認していたらなんか本番さながらの演奏になり、肩で息する状態に。対バンの中鉢さんが「リハだと思ってたらそのまま即興になってビックリした」といわれていた程。
本番では途中私からリズムを刻んだ場所があったのだがなかなか場が暖まらず、やはり人との演奏では自分の嗜好を出すべきじゃないなと再確認できた。特にドラムは音程がなくリズム主体になるのでほかの楽器からはすごく狭い提案になるのだ。逆にほかの楽器に対してリズムを提案する方がドラムとしては非常に範囲が広く比較的楽なのだ。
来てくださったお客さんも「いつもの東郷さんと違ってビックリした」とか、まったく即興系を聞かない方にも「すごくカッコよかった」など言われて普通の人にも届く演奏が形成できたことは嬉しい。やはり求めるは普遍性のある演奏であり、それはゲーム製作においても同じ思想である。
ミュージシャンcharaの自宅環境
深夜番組バズリズムにゲストで来たcharaが自宅風景を。
パッと座ってさっとできる環境、なわけで、これはどう着手するか(→HP)の実践の一つで、私の環境も現在、MSXもFM-7もピアノもベースもキーボードもボーカルもスイッチ一つでプレイできる環境になっていて「わ!同じだ!」となんか嬉しい(笑
つまり準備に時間がかかるとふと思いついた気持ちがしぼんでいくので、気持ちが消える前に作業に入れる環境が本当に望ましい。
28年前?の制作途中ゲームの、デバッグ作業:
マップもすべて実装されほぼ完成に近いのになぜ放置なのか?と調べるとメモリ不足で、get@とか使って圧縮を試みたりしているところだった。今ならリスト分割であっさり解消したので、過去作品集への収録としてfixすることにしたのだ。
デバッグしていて、例えばリストの比較とか当然コピーなどできないので手書きで書き写すしかないし、バックアップすると数分は待たされ何もできない。だが待つしかないことは了承済みであるから不満などないし、むしろ豊かな時間を感じた。つまり、なまじ可能性を示されると無駄な試みをしようとしそれが不満につながるんじゃないか。。もうできないという現実はある意味、親切なんじゃないか・・。士農工商とか。
それにしてもプレイして気づくとこの世界に没頭しているのがわかる。
最近のゲームを見ていて思うのは、かつては明確にあった「作者世界の体験」という要素がゴッソリ無くなっている、ということだ。ルールだけがある。ネット全盛になり、個人内に世界(広義の宗教といってもいい)が蓄積しなくなっているという疑念が私にはずっとある。たくさん見聞きしたものの中から厳選されたものだけが残る濃厚なエキスが作者世界だ。そんな面白いものを捨ててまで何を得ているんか?と(笑)思えば、リズムの快楽だけがある90年代テクノは廃れるのも早かった。今溢れるゲームもそういうニオイがすごくする・・・さてどう取り戻そうか?
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
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