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7/1 わかってつまらないのではなく意味がわからずつまらない |
sfcトルネコの大冒険は当初、アイテムの効果や名前すらわからないという「もっと不思議のダンジョン」が最初にできたのだが、わかりにくく遊べないため、導入面として、アイテムの名前がある「ちょっと不思議のダンジョン」が用意された経緯がある。もちろん制作者は「遊んでもらいたいのはその後の「もっと不思議のダンジョン」です」と語る。そうだよねえ!
今作っている作品もようやく「ちょっと不思議の」的な、明示的なシステム+ステージが実装でき、ようやく遊び方がわかってもらえたりしている。これまでは「おかしいなあ面白いはずなのに、なぜ遊べないのだろう?」と不思議でならなかったのだが、まあ、要は「もっと不思議の」状態だったのだ。本人は長く作って常識となっていることも、初めて遊ぶ人にとっては非常識であるわけだが、これがなかなか気付かないんですよ。。光が見えては絶望し、の繰り返しをしていた。作っては棄て作っては捨て。。
王道なるゲームを遊び倒し影響を賜っていた時代は過ぎ、
まあ今後は、「システム根本からの構築と噛み砕き」が通例となることを覚悟しなくてはいけないんだな、と思ったりしつつ、今日は数年ぶりの「休日」気分を味わっています。つかの間の勝利。。
わかるものを作るのではなく、作ってからわかるようにするのが本来の表現であり、ゲームもそうあるべきじゃないか?と思うわけですよ!流行とはファッションであり、着るのは自分なんであって、自分まで服になってどうするんじゃいの?と。。まあそろそろ山を降りて人里になじまなければなりませんね(笑
一般テスト開始。予算とか工程が増えるので避けていたこと、をシブシブ実装すると、とたんに「なるほど!何をやりたいかわかった」とか言われたりします。。どんなに遠く離れたつもりであっても、結局お釈迦様の手の上なんだってことです。だったら最初っからやれってことですが、最初はそこまでやる気はないわけですよ当然。。「本降りになって出て行く雨宿り」さながら。
今回かなり斬新なシステムと操作体系なんですが、初めて触る若い子がなんの問題もなく操作していて、このあたりは老年の技ですよ!フフフ。テストプレイをやるたびに思うのは、こちらが想定もしないような操作をすること。これはいつもビックリさせられますし非常に面白い。困っていても口を出さず答えを言わずどう対処するかを見させていただく!「そうやるんだーへー」みたいな(笑)先日ベタに入れたシステムにより、しばらく10分ほどがあっという間に遊んでくれて、一安心。その後あれこれ聞くと、やはりベタな希望がチラホラと。。そうだよねえ、やっぱそっちだよねえ。。やりたくないなあ(笑
仕事で猛烈に遅れているサラチのエンカウントキャラ作成、とにかく手付でも!と。。
モノトーンで昔のamigaとかmacとかのそっけない感じにならないかなーとちょちょっとドット打ちしてみた。
もちろん挙動の情報もどう込めるか?という、つまりまー、上手い下手とかではないわけですよ表現は。。作り手が見せたい情報が入っているか。。
個人的制作物は情報漏洩の配慮が要らないので気楽ですね。。むしろ真似するならしてみろ!という感じですよ。真似したらコチラ側、いらっしゃい、ということです(笑)
ちなみにこれらは「運び出す家具」です。家具のくせに抵抗するわけですよ!運び出される立場なのに!困ったヤツラです。
その猛烈に遅れているおシゴト側は呪文が入りました。やはり爽快ですねー呪文は!
このところずっと試みているのは、ベタに挙動プログラムを組むのではなく、テキストによって挙動を制御させること。
例えば、
かつてのBASICでは音楽を演奏するのには
PLAY"O6T255L64ECDE","O2T255L64GCGC"
とか適当に文字打って音聴いて気になる場所をいじったりして、みたいな作り方ができていたわけです。
昨今のシーケンサだと最初からリズムだの何拍子だのを最初に決めたら動かせず、五七五で小説かけ、みたいなせまっくるしさだが、そういうのがない。一文字削ると全部ズレる野蛮さ。
これはBASICで組む場合も似ていて、
LINE(0,0)-(200,129),2
とかやればなんか線が引かれて、傾きが気に入らない場合は数字をいじって再度実行、を繰り返す。
SHOOTING GAME SIDE vol.4に、ゼビウスやドルアーガのBGMやSEを担当された慶野由利子氏の講演録が掲載されていますが、やはり、音を並べてみて鳴らしてみて足したり削ったりしている。オールアバウトナムコ掲載の譜面なんかも、譜面にしたらああなるが本人は譜面で作っていない。
(オールアバウトナムコ掲載の譜面)
このエディットによる作り方は小説などの文章にも似ていて、書いてみて眺めてちょっと削って、という作り方で、これは非常に創作的でもある上に、文系の人でも関わることができる。
実はドット絵なんかも同じようなところがあって、意図するような見え方になるよう、打っては眺め打っては眺めする。近年失われたゲームプログラムの面白さがそこには依然あるような気がする。
だからこそ
C言語で組むにあたり、かつてのそういった古きよき作り方をするには?というのは長年の悲願でもあったわけですが、BASICコマンドを関数として組む、という方法がどうしても利便性必要性から関数自体がバラされていってしまう現状にある中、ゆきついたのが、スクリプトではなくデータによるプログラム駆動、という形でした。
つまり、呪文を、データ駆動で動かせる構造が出来た、ということですね。この方法の最大の利点はマジックが起きやすい点です。システム上で何か入れようとしたときに、それができるならこれもできるジャン!という、ゼビウスで言えば「索敵ができるなら見えない敵が置けるな」みたいなもんです。
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とはいえ、
恐れていたRPG色が日増しに強くなり、そうすると遊ぶ人の要求もそれなりに増えてくるわけですよ。それがあるなら、ああしたいこうしたい。敵キャラは誰々が書いたああいう感じ、みたいな。つまりあるジャンルに属するということは、すでにリリースされているそれらが最低ラインとして比較され実装しなければならなくなるわけです。そして年単位のデースレースへ。その時点で娯楽じゃないと思うわけで、だからこそ頑なに避けていたんですが。。。逆に離れればそういった縛りからは離れますが、ユーザーも寄ってこなくなるわけです。まさにライオンとシマウマ、たけしさーんというわけです。バカヤロ!
毎年恒例のJAZZ ART せんがわ2012の自由即興に参加
前日まで風邪、また5末UFOでの右腕の筋違え?の治療による関節痛の波及などでのたうっており、風邪は治したがもう義務感のみでなんとか会場へ。もう仕事です(笑)
本番1回目はオルガントリオのリーダー伊藤一樹と同じ組となり、ピアニカな人とトリオ。巻上さんからはなんか自由即興の顔と会場に紹介され恐縮する。実はその前に巻上さんとsaxの女性、田中さんbassの恐ろしいほど研ぎ澄まされ繊細でダイナミクスでどこのものでもない演奏を拝見し、自分のドラムはまだまだ雑で不自由だと思い知らされたばかり。伊藤さんとのかみ合わせは問題ないので、音が聞こえにくかったピアニカと声を生かしつつ自分の音量を押さえずに叩ける位置を探す工夫をした。演奏中は無我夢中なのでわからないのだが終わって巻上さんから「短かかったじゃない?」といわれたことが私にはホメ言葉かな!
2回目は藤原清登さんが加わり、冒頭から弦をブリブリ震わせて攻めてきたのでそうとう面白かった。見た目はダンディなのだが中身はロック少年というお方だ。同調して叩くとドラムとぶつかるので、ちょっと音色には工夫したり。ドラムって野蛮な楽器なんですよね。実は人を音楽を支配する。また、こういった即興ではドラムはどうしても環境音的な攻め方になりかねないので、全体のツボを見つけて打点のある音で違和感ないループを作る努力をするし、終われなくなる予防として、もんじゅじゃないが高速増殖してしまう流れを事前に察知し手綱を引く配慮もする。病み上がりなのでもう手一杯でどう演奏したか憶えてないがよかったらしい!
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今回他の組の演奏で、尺八で参加の年配の方がおられた。尺八は音を出す自体が難しいのだそうだが、その方が即興中「うーさーぎおーいし、かのやーまー」とメロを吹き始めた時があった。即興はある一定の緊張感を保つ意志が大事で、もちろんその牧歌感にあわせてドラムを叩いたりコードを弾いたりはまずない。かといってアリものに独自なパターンやコードをその場でつけるのはこれまたかなり高度で難しい。みんながんばれ〜!とハラハラして見ていたのだが、演奏後、プロデューサの坂本弘道さんが
「知っている曲が出てきたときにこそ即興の真価が問われる」
と
コメント、もうこれだけで今日来た甲斐があったと感心してしまった。さすが即興のリーダーたるや。
つまり仲間内の予定調和で演奏しているわけではない以上、こういう突発的な事態を尊重しつつ我がモノに引き込む対応ができることが即興の技術と言えるということです。そういう意味では今年は全体的に予定調和ぽかった感じがしたほど。数組か、相手の音をほとんど聴かず反射神経と大音量で突っ走る演奏があったが、むしろ「以前はこういう演奏ばっかりだったよなあ」となつかしく思えたほど。そういうときは「わーコミュニケーションとれねえ、どうしたら!」と思わされて緊張し考えた。それが即興だったんだと。。やはり「え!?」と驚かされる、威かす、そういうプレイヤーであるべきなんだと反省も含め、よい日でしたが、体の痛みは再発。もう老年ですわ。演奏中は大丈夫なのだが。。(parkerか!)まあ世阿弥の言うように、若いものに花を譲る年齢ですな(笑
夜中ちょうど始まった、ビートたけし監督「アキレスと亀」。いわば芸術家残酷物語という感じ。芸術の本質的なこともあり つい見てしまう。現時点で私に判っていることを、記憶をたどって記載しておく(内容に踏み込むので未見の方は注意してください)芸術やクリエイションにありがちな惑わせられるテーマをここでつぶし、その時間をクリエイションや鍛錬に当ててほしいです。
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[映] 美術学校で静物を写生する風景「写真やコピーがある現代にこんなことは意味はない」「内面から自由に描くべきだ」と学生が文句を言うシーン
写実的に描く結果そのものよりも、目から見たものを腕に伝えキャンバスに落とす個人の技術の鍛錬にこそ意味があります。「目からの情報」を「脳に描いたイメージ」に置き換えればその意味がわかります。脳内のイメージを正確に写実できないならば「内面」も正確に描くことができないことになります。抽象画を描いているような人でも、たいてい写実も大変うまいものです。
[映] 絵を描いては画廊に持ち込む主人公。「もっとこうしたらいいんじゃないの?」といろいろアドバイスを受け、それに基づいてあれこれやってみるシーン
作品の良さが少しでも相手に伝わっていないときに受けるアドバイスは見当違いの上参考にならないどころがむしろ有害になります。これは芸術に限らず、例えばプレゼンなどでも言えることで、意見を求めるときは、少なくとも相手に良さが伝わっている手ごたえがあるときのみにしなければいけません。
伝わっていないときに意見を求められた場合、相手は見た目から連想するものを思い浮かべ、それとの違いを意見として述べてきます。もちろん見た目のみですから本質的にはまったく違うことがほとんどですが、負けた状態で受けたアドバイスは検討してしまいがちで、それが迷走に拍車をかけ、ひどいときには元の作品のコンセプトを失ったりします。
[映] 画廊に言われ著名な画家の絵を勉強し、真似をして画廊に呆れられるシーン
芸術における先人の勉強は、その絵など作品に理屈抜きでスゴイ!と感動できなければまったく意味はありません。先人の絵とは、スゴイ!と思わせる彼らの内面の何かを、たまたま彼らの技術で表現しただけにすぎません。つまり勉強とはスゴイ!と思う機会を得るためのものと思った方がよいでしょう。一度スゴイ!と思えば、作品集を探したり展覧会に行ったりするなど、自発的に動きはじめます。それが勉強となります。スゴイ!と思えないのであれば自分にまだ素養がありません。他を見聞きし教養を高めたのちにスゴイ!と思える将来の機会を待つことです。スゴイ!と思えないまま技法だけを真似ても何の意味もありません。
[映] 錆びた空缶を200,000円で売ろうとするシーン
汎用便器を芸術と言ったりするのは、いまだかつてやったことがないその衝撃、ビックリに価格がつくと思ってよいです。絵の具をぶちまけただけのキャンバスに価値が出たのも同じで、つまり、相手にスゴイ!と言わせる手段がそういった様々な荒唐無稽な行動に出させただけであり、それらは単なる結果でしかありません。つまり荒唐無稽な手段がアートではなく、荒唐無稽な手段に至らせた作者の気持ちが受け手に伝わったからこそアートだったわけです。また衝撃やビックリは、その時代の常識を裏切ることで成立しますから、時代が流れた現代においてそれらの手法を盲目的に使用するほど意味のないことはありません。過去凄かった名人落語が今面白く思えないのは、彼らの芸が廃れたからではなく、時代の常識や文化が変化したからです。もし名人落語が演じられた時代に私らが居合わせればきっと大爆笑であったでしょう。
つまり、芸術家はその時代の空気に敏感で、かつ密接に関係していなければなりません。不条理マンガを描く人は、常識をよく知っています。不条理とは常識から見たビックリだからです。よって、その芸術単品ではなく、その芸術が生まれた時代背景や周囲の芸術の傾向などとの差分こそが、その作品の価値と見極めるべきでしょう。作品単体を現代の価値観で測っても何の意味もありません。
[映] 迷う学生に屋台のオヤジが「アフリカで飢えた人の前に、芸術とおにぎり出してみな?みんなおにぎり取るよ。芸術なんてそんなものだよ」といわれ絶句するシーン。
これは娯楽にもいえますが、芸術とは衣食住が満たされた上に存在するものです。国が貧乏な状態では芸術は一般的ではありません。。つまり、これは比較のための舞台設定が間違っている命題です。
しかし!私にも体験がありますが、例えば空爆の日々の中でもいつものようにチェスをする精神、これこそが娯楽の土壌であり守るべき人間の生活と言えましょう。
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近い混乱させる命題としては、
数学って何の役に立つの?円の面積出してどうするんだ?
がありますが、これにはいい解答があって、
まず数学とは、問題とは何か?を洞察する学問なんですね。問題文があるのだが、どういうやり方で解けばいいか。それがわかればあとは計算になる、つまり作業に落とせます。世の中にはたくさんの問題があり「どうすれば解決するか?」がわからないことがたくさんあります。それらの見極めが、自転車に乗ったり、ぱっと料理ができるようにさっと動くようになるわけです。
また、これは私の自論ですが、数学はたくさんの問題を論理的にこまめに解く経験を重ねますので、いわばこれは成功体験の積み重ねとも言えます。勉強とは、手っ取り早い成功体験の積み重ねなんじゃないかと思っています。つまり、根拠のない自信とはそういった幼年期の勉強による成功体験に裏打ちされているので、ちょっとやそっとじゃ揺るがないんじゃないかと思っています。
現実社会における成功というのは、数限りないトライ、つまりうまくいく組み合わせを順列で探す作業です。もちろん、成功確率の高い組み合わせを見極めるのも才能ですが、何よりも、その組み合わせに至るまでの地道な日々に耐え得るのは「解答が必ずある、という根拠のない自信」であり、それは、つまらない繰り返しに見えた、それまでの勉強にあるんじゃないか、と私は見ています。
小学校の手で計算を解く過程もそうですね。計算機がある時代になぜわざわざ手で計算するのか?といえば、その小さな繰り返しが成功体験となり、右脳に叩き込まれるわけです。また繰り返し解く訓練は、自転車に乗れたときのようにずっと生涯習性として身につく財産となるわけですね。計算機で解けても当たり前、でも自分の手でやる場合は間違えがち、その上で自分の手で解ける確率が上がれば自分で解いたという実感が得られ、自信となる。これが計算機を使わない効用です。
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映画のテーマである「アキレスと亀」とは、理論上亀はおいつかれない、というパラドックスをモチーフに、芸術を得体の知れないものとして追いつづけた結果、亀(芸術家を志すもの)は、アキレス(活動限界時間)に追いつかれてしまうよ、と示唆しています。これはゲームでもマンガでも音楽でも演劇などでも同じでしょう。自分自身の手ごたえがないまま芸術を追い求める危険性。。浦島太郎ですね。気が付いたらおじいさん。芸術は素晴らしく自由なんだ、という甘言に騙されて時間を浪費せぬよう、ほどよく憧れを持ちつつ足元は叩きながら進んでもらいたいです。このページはもちろん私のゲームの開発進捗のご報告もありますが同時に、私自身模索しその過程で発見した普遍的な定理や思わぬ落とし穴や考え方を示し役立ててもらう意図もあります。よって無責任に頑張ればなんとかなる、みたいなことは記載しませんし、気休めではないキビシイことはあなたを打ち負かすかもしれません。しかしきっと参考になるだろうと信じて書いています。そして多くの斬新なゲームの登場を楽しみに待っています。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
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