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これは書いておかないといけないと思うので書くことにした。
東高円寺のUFOclubにて「鳥を見た」のライブ当日。
メンバーと話をしている中で、お客さんに「最近なかおさんが攻めの姿勢でない」みたいな感想があったことを聞いた。そういわれれば最近演る曲目も似ている。もちろんプライベートなどいろんなことも無視できないだろうが、ステージ上ではそれはあまり大きなことにはならないものだ。
この話を聞いたとき、まず私が感じたのは
「そうさせているのは私らだ」
と
いうことだった。
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このバンドにおけるドラムも依頼されやっている立場である。なので、もちろんメンバーではあるが、なかおさんのバンドであるという意識は私の中では非常に強い。彼の物であると。なので、演奏については、彼の出すトーン、音色、響き、リズムなどを妨げないように最大限に注意を払って叩く位置や音量、音色、残響などをコントロールしてきた。つまり、私なりの演奏をしているが、私の音をステルス、殺そうとしてきた。
だが今、彼が最大限のパフォーマンスを出せないような状況になっているのならば、
この私の配慮、もちろん現時点でできる最大の配慮と技術で応じていると思うが、それが機能していない、という証明になるのではないか。。方向が間違っていると。
そこで、この日は、
彼の出す音をすべて聴いた上で、違う回転で叩こうとしようと決めたのだった。ステルスしない。
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当日見ていただいた方には分るかと思うが、なかおさんと山崎氏のベースがかもしだす8ビートと全く異なる速度とバー(小節位置)と叩き方でドラムを重ねるやり方、つまり私が最も得意とするやり方で挑んだ結果、かつて青い部屋での異様な勢いとわけわからなさとスリルが全員を疾走させた。そんな音出すんだ!と、もう全員の音が楽しくてしょうがなかった。みんなすげえよ!と。。
つまり、これまで相手に影響を与えないよう、そのままの姿で最大のパフォーマンスをしてもらおうと思ってステルスしてやってきたことは、その私のステルスしている姿勢そのものが他人に影響を与えていた、ということだったわけだ。
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というわけで、今後は全てについて、
息を潜め相手を尊重しようとして一挙一動に最大限の技術で応じる、というやり方ではなく、尊重した上でこちらの最大のやり方で応じる、が正しいんだ、と痛感しました。
やっとしゃべるようになってきたウチの弟の子供が、ウルトラセブンのオープニング曲がお気に入りである。
このウルトラセブンのタイトル曲は、当時シンセが全盛であったが「セブンのヒューマニズムと宇宙の広がりを出したい」という円谷氏通称ツブちゃんの意向でオーケストラ演奏になり、また作曲の冬木氏も、和音の響きと変化の面白さを込めている。
曲が終わると「もいっかい」と彼は所望するわけだが、言うまでもなくみんなで見ているため再度見ることは叶わない。
彼の気が済むまで何度も見せたいなあと思い、気付いたことがある。だからおじいちゃんなのか!と
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天気のいい日に、おじいちゃんが孫を連れて電車を見せたり、「あっち!」というのにまかせてポクポク歩いたりする過程、これこそが、人類が英知を継承してきた流れなんだ!ということである。興味を持ったものにいくらでも触れられ発達期の脳は当然刺激され複雑に接続しあえ伸び放題になる(笑
人工知能への興味を高じて、脳の構造の次、脳にどのように蓄積されているか、というのが私の最近のテーマであるが、子育てにおいて、子供を連れて彼らの望むような行動を見守るような時間は共働きの夫婦にはない。しかし、リタイアしたオジイチャンならば気まぐれな孫の興味の赴くままの行動に付き合う時間は十分にある。幸いなことに老体にとって孫はかわいく感じるようにもできている。
そしてさらに好都合なことに、ご老体は人生経験を経てきている。様々な知識や経験が年月の淘汰を経て蓄積している。それに好奇心旺盛な子供が接するのだ。子供の多少の突飛な行動に動じたりもしない。なんと好都合なことだろう!
すると核家族化、都会化の大きな弊害とは、そういった孫を預けられるご老体と、忙しい夫婦が分離してしまっている現代社会の問題であり、これはいわゆる人類の英知が途切れ十分に継承されない問題も含んでいるような気がする。そりゃ人的資源は枯渇するよと。。宮崎駿氏が保育園を作ったのは非常に合理的であることがわかる。
そう考えると、
今新聞でもテレビでも、ああ、若い記者が書いたんだなというようなものが、年配の人たちの経験、つまりアドバイスや訓練を経ないままそのまま出されているものがチラホラ見られるようになってきている。気持ちだけで書かれ、対立する双方の事情や背景などの裏付け調査や洞察がなされていないからすぐわかる。まさに若きゲド。。それは彼らの責任というよりも、社会的な円熟した経験知識を継承する構造が失われているからではないか、ということである。つまり、託児所を増やすのではなく、孤立し行き場のないエネルギーがそのままオレオレ詐欺に流れていくシルバー人材が託児に向くような、そういう社会構造になると正しく回るのではないかと思うのである。
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オジイチャンから人生についてや生き方など説かれてもわからない年齢である。ただ見守られて好きに動き回って触りまくり脳内のニューロンは発達しまくる。そしてオジイチャンのまいた種は、孫の世代で花咲くわけで、つまり世代伝承とは一つ飛びで継承されているのではないかと。
「芸術(表現でもいい)とは、似顔絵のようなものである」
似顔絵は、鉛筆でラフに描いてもいいし、印象派のように油絵で写真のように描いてもいい。マンガ家もよく芸能人をペンとインクで描いたりしている。どのような手段で描こうとも「似ている」ことが大事である。
つまり、好きなミュージシャンの演奏を必死にコピーすることは「鉛筆書き」を真似ている過程であるが、それを「水彩」とか「油絵」でも描けるようになって初めて、そのミュージシャンの本質を掴めたといえる。その真似た鉛筆書きをずっと使っているうちはそのミュージシャンをわかっていない。
掴めたなら、
似てればいいんだから、何を使っても描けるのだ。
そしてその「似ている」が「自分のやりたいイメージ」になっていき、表現者としての道が始まることとなる。
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ちなみに世の一級品といわれているものは、人類の歴史の長年を生き延びてきた強い遺伝子であり、それらに「似ている」ようにその時代の描き方(および微力ながら自らの方法も)で描くのが表現である。
さそうあきら氏の「超マンガ大学」にもあったが、
そういった一級品、核となるものは「骨」であり、しかし読者は「肉」を食べたい
わけで、
その肉、というのが時代時代の「俗」と言われているもの、と言ってよいだろう。
歴史を生き抜いてきた遺伝子たちを把握し(血肉とし)、その時代時代のやり方でそれらを表現することで、それらを次の世代へとつなげていく。
よって、その時代時代の描き方だけを見ているうちは、その時代だけで終わってしまい、なによりも継承する義務を果たせないことになると思うのである。
ゲームには「こうしたらどうなるだろう?」という面白さがあるのだが、いうまでもなくそれは作者が用意した面白さなのだが、これがゲーム制作の場合は、それがまったくの未知であるという面白さがあるのだ。どうなるのかわからないという!
その面白さは与えられるものではなく、自らが組んだアイディアやプログラムが起こす。間違って動いたバグが面白かったりするのは基本として、あこがれのゲームみたいに作ろうとしてできそこないがこれがまた面白かったりする。
ただ、
長年ゲームを作っていると、そういった間違いを起こしにくくなるがゆえ、さらには最近のオブジェクト指向的な言語がゆえの作りにくさ、バグが拾いにくい感じがある。enchant.jsとか次々「簡単にゲームつくれまっせ」なものが出てきて期待するんですが、結局メンバ変数かよ!みたいな。関数をコールしたらコンパイルのときに自動的にヘッダ読み込んでくれればいいじゃんと思ってしまう。なぜいちいち探して実装しなければならないのかと。Xcodeのdelegateとかもそうね。いちいち定義を確認しなければならないので、ちょっと作ってみて動かしてみて修正していく感じにならず、マジックがちょっと起きにくい。Unityとかもかなり魅力的なんだが、モデルどうすんの?で大きな壁にぶち当たる。モデルは適当につくるとホントにもうしょっぼくてそれだけでやる気なくなってしまう。ちゃんと作ろうとするとかなり本気度が要求される。。鉛筆描きが許されるモデル形式が欲しいんだよね、もう昔から。。ポリゴンの板ってなんだよ?と。立体は板じゃねえよと。
そのあたり、ゲームにおけるユーザーフレンドリみたいな思想が、ゲーム制作における言語や環境に落とせないかというのは私らの時代以降の大きな課題かと。原因はわかっているが解決策がなかなか。。まあ私が今構想しているのは「分離」と「ユニット化」ですね。ニコニコ的な。それはいずれ。。モデルについても形と動きをどう抽象化するのか、がキーポイントで、目からウロコ的な解決策があるんですが、誰もやってなければいずれやるです。。
まあ、そういった流れの中、突破口となるのが他人の意見だったりします。自分では自分の中で推敲し考え抜いて決定しているがゆえに一旦実装してしまうとそれが間違いではないかという視点にはちょっとなりにくい。最近もいろいろ指摘されてもどうも実感がなかったりしたのだが、ふと遊んだps3ドラゴンズドグマで、仲間たちの会話が字幕で画面に出るのがこれが読んでいられず、こんなん無理じゃん!とすぐ読まなくなり、ああ!このことか!とわかったりする。人間体験しないとわかんないもんです(笑
それと、このところの修正で痛感するのが、
ベタにやれ、
である。
工程量のことや仕様爆発を避けるために、このくらいかな、とおとなしめに実装すると、いうまでもなくわかりにくい。だってベストを避けてんだから。そしてそれが作り手の「これくらいはわかってくれよ」という甘え、つまり制作側の都合を遊び手に押し付ける流れになったりする。もちろん、遊び手は我慢しないので「つまらん」という言葉として作り手に返ってくる結果になるのだが(笑)
で、しぶしぶ観念してベタに入れた結果、恐ろしく劇的にわかりやすくなり、
じゃあこうしたらどうなるんだろう?こいつは何をしゃべるかな?何をするかな?とかニヤニヤしているところであります!(笑
これがゲームをプレイしているときの「こうしたらどうなるだろう?」がゲーム制作で味わえる瞬間であり、しかも作者による実装上限がない。作り手によっていくらでもその可能性が伸びていく。ゲーム制作こそがゲームそのものだといえましょう!
フフフ、乞うご期待ですよ!
菊地成孔氏は著書で、
かつてMIDIが出現したとき、それは、音楽を数値化し管理しようとすることだった、
と説明している。
先日読んだカノッサならぬジョージポットマン平成史の中でも、
twitterなどでは友達関係の数値化
と分析されていた。
この数値化、という現象は面白いなあと思って、気付いたことがある。
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どうもこのところの人の傾向として、とかく、何かを説明しようとし、今すぐ知ろうとし、検索で調べたりする。
また分らないこともネットや何かで解説されているものを読み、その日の市場価格のまま会得してしまう。
つまりこれらは、
左脳で今自分が理解できることだけを蓄積していく行為に近いだけでなく、
本来、
右脳にぼんやりとしたまま蓄積されるべき事柄が矮小化され言語や数値として固定化され、右ではなく左脳に格納されてしまうことを意味することに気付いたのだ!おおなんともったいない!
しかし
例えばモノを思いついたりひらめいたりすることというのは、右脳にぼんやりと蓄積されてきた海の中で、ある日突然結晶し言語化することだから、海に栄養が少なければ結晶もしにくくなってしまう。つまり、クリエイションとしては右脳に格納される割合(機会)を増やすべき、つまり、なるべく気になったままわからないまま定義しないまま保持するようにすることでより創造性が向上するのではないか、と思うのである。jpgにしないでbmpのまま保存する感じですね。jpgにしてしまったら不可逆なわけですよ。
ひらめくとき脳内でどのようなことが起こっているのか?を「ひらめいた」のでここに記載しておく。たぶん十中八九間違いなし。
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まず、何かを見るなりして脳内のニューロンが刺激される。
紫が刺激されたニューロン。
続いて、その刺激されたニューロン(紫)が彼らに繋がっている別のニューロン(青)を刺激する
連鎖的に、
刺激された青ニューロンがさらに繋がっているさらに別のニューロン(緑)を刺激。
このとき、
緑同士で繋がっているものが三角を作った。
これがひらめきで「見えた」ものである。
昨日書いた「右脳内での結晶ができる瞬間」である。
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なお、
最初に刺激されるニューロンは、目で見たものの他に、手でも皮膚でもよい。
よく、歩き回ったり、煮詰まったときに出歩いたり人と話すと発見できたりするのは、こういった外部刺激が追加されるからであり、逆に言えば、煮詰まっているときに同じ状態を続けても無駄ということがよくわかる。
また、上記の連鎖の流れを見れば分るように、
一つのニューロンが他の様々なニューロンとより多く接続していればいるほど、思い付きやすいということになる。
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接続しているとはどういうことか。
それは、
ある一つの事象に対して付随する情報を多く持っているか?である。
例えば花の写真がある。
その花の写真を見たときに、もしその花を実際に触ったりしたことがあれば、匂いも手触りも表面のざらざら感も、もし生けたりしているならどう育ちどう朽ちていきどう変化していくのか、さらには誰からもらったかとかその時どういう人間関係があったかといった記憶まで同時に保持している。これが接続である。
これらだけならば花の記憶でしかない。だが、もし同じような匂いをかげば、この花についての記憶すべてに接続される。逆引きができる、ということに大きな効果があるということです。
人間の経験というのは、長く生きていろんな体験をしていく中で、例えば上記の花でいうならば、その花についての新しい情報や体験をすれば、それがその花の関連情報として記憶され接続されていく。その長い総体が、その個人の脳中での花情報のネットワークとして構築されていくわけです。
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ちなみに、接続がどのように構築されるか?の具体的なイメージですが、非常にいい資料があります。
(引用元調査中)
これは何年か前に脳について調べていて拾った資料ですが、人間の脳内の発達過程のサンプルである。
生まれて15ヶ月目から2年でほぼ一杯に張り巡らされることが分る。おそらく3歳までにはほぼ基本的なシステムが出来上がるだろうことが容易に想像できる。ちなみに誕生時にすでにチラホラと張り巡らされている様子を見ると、胎教は十分に影響を与えているということがわかる。話し掛けて多分それは意味を成す。生まれる前にも多分聞こえているので音楽でも何でも一級品を聞かせるとよいだろう(笑
発達障害についてのコラムが昨年の朝日に乗っていて、それが「アスペルガー症候群」というヤツである。
どんなに難しい問題も解いてしまう「天才だ!」という子だが、自分の想定した以外の出来事に対応できない。人間関係、まわりの音、などが苦痛となる。実はこの子は、赤ちゃんくらいの段階で親がパソコンを触らせていた。すべて予想通りに動く世界だけを触れて脳の基本システムが構築されたため、物心がついたときには、その「ルール」以外を取り込むことができなくなったのである。攻殻機動隊の「亜成虫の森で」に出てくるネットプログラムの天才子たち、みたいな感じである。
人間社会でもわかるが、最初に張り巡らすときは自由であるが、あとから参入するときはすでに張り巡らされたルールを無視できず苦労したりするもんです。つまり最初が大事。
なので、3才まではテレビやパソコンやそれら関連するデジタルなものには触れさせず、すべて自然物にし、五感を関連付けさせる脳の基本構造が育つように仕向けると、五感からの情報も接続しやすい基本構造が作られ、後から追加でき、かつ、ひらめきしやすい脳になるんではないかということです。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
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