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わずかに浮上中..
古いマザーボードにSATA2を
いまや秋葉ではIDEは絶滅寸前でほとんどがSATA2になりつつある。一時はIDEを買い占めようと思っていたが、変換ケーブルがあるらしいので試してみたら果たして認識、これで延命です(笑)問題は、128Gまでしか認識されないことですがかわいいもんです。
なんで古いslot1-1997年製マザーボードかと言えば、速いからで、1.0Gの2000が、最新ハードのwindows7よりさくさく動く。残念ながらデフレ?時代ではあらゆるものが「削減」「コストカット」されるため、なんか遅い。iPhoneなんかも、実はタッチベースでの文字入力はすごく遅い。ある程度以上は速く打つことはできない。押して離すで2step。ボタンに比べてホントに遅いんですが、まあグッチやヴィトンということなのでしょうがないんでしょう。ゆでられるカエル、スタイリッシュの代償ということで。
実は、起動HDDは数年前からすでにSSD化してあるんですが結局最初速くても徐々にあまり変わんない感じ。逆にフォルダコピーとか涙が出るほど遅いし止まる。ルーカに「windowsはキャッシュ作るからね」といわれて「ああ!」と気付いたんですが、つまりキャッシュで速度を補っていた古い時代のOSなんだってことですね。だからmacだとSSDで速度が落ちたりしない。
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夜中スタジオ練。
練習とは、叩く過程を経て体にエッセンスを蓄積するプロセスなんだと気付いた。上からジョーと注いで「ろ過」する感じ。注ぐのが練習で、ろ紙、つまり体に残ったのがセンスやテクニック。同じように例えば思考とか経験とかも、五感入力を脳に注いでエッセンスが残るということ。つまり、浴びる経験なり体験に優れたものが多く含まれているほど良いということになるわけ。
ジョージAロメオ「ナイトオブザリビングデッド」
ゾンビについてはホントはこちらが第一作目だったので。ゾンビが道具を使うとかすばやく動いたりとかルールがまだ固まっていない感じだが、チャーミングな終りは人生な感じでよかった。そんなもんですよ人生。鑑賞に当たり退屈を感じる心をおさえて「見る」に徹するキューブリックルール(→HP)を適用。今や映像や情報は甘あいお菓子とかエロの暗示が施され慣らされており、こういった古い映像を見るとそういったものがないのですぐ退屈に感じてしまう。助走時は拘束具が必須。
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このところ本当に困っているのは、何を見てもやっても、次々に連鎖的に何かアイディアが浮かぶことで、これは例えば作業をしているときとか組んでいるときにもとりとめもなく、しかもそれなりに放っておけないレベルのイメージが浮かぶ。映画やゲームやなにかかしらアイディアが出た場合はありがたく書き留めて終りなのだが、プログラムの最中にぶわわと出ると、例えばそれが問題点だと、それを基軸にさらに先も見え、木の枝が伸びるように爆発していく。そうなると今やっている作業の意味や目的が崩壊し続けられなくなる。アイディアも同じで、次々と生まれ、それらからさらに次々と枝分かれし増えていく。これじゃ核融合そのものじゃないかと。。放射能の影響なのかと思ったりもするほど。唯一の解決策は、そういった散り散りのアイディアたちが吸着するための、銀水溶液の中のpt棒のようなものが要るということなんだなあと思っている今もこう書いたりしていることについての思考がわらわらとゾンビのように歩み寄りつつある。
食われないように逃げまわることが人生。一つ一つはたいしたことがないが群れになるとひとたまりもない対ゾンビ。いまやいたるところにゾンビがいる。頭を撃つんだ。
4月になり学生から社会に出る子や、仕事のハードワークで参ってしまう人の話をよく聞いたり相談乗ったりする機会も増えた。
会社人間になってしまった人の話などをし「前はそんなことする子じゃなかったのに」みたいな話になり、あれ?これはどこかで見た風景だ、と思って気付いた。
ゾンビ映画である
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ゾンビ映画では、自分の親や娘や知り合いが、カッ!と目を見開いて手を伸ばし襲ってくる。
どんなに愛していても、昨日までずっと長く一緒に暮らしてきても、噛まれてしまうと実体はゾンビとなり襲ってくる。
見た目は、愛すべき人だが、何を言っても通じず、なすすべもなく、彼らは噛もうとやってくる。
もう
頭を撃つしかない。
社会に出ればゾンビがうようよ居る。
若くフレッシュな彼らを噛み食らおうと襲ってくる。私がこのところ80年代などのものを集めたりしているのは、その時代は人に多様な経験が蓄積していてそれが作品に反映されていたし、何よりも大人が若い世代に経験を与えようとしていたことが感じられるからだが、今や時代はゾンビ、大人はいない(なりを潜め黙っている)。
我が身は自ら守らなければならない。一度噛まれてしまえば、ゾンビと化し、生身の人間を求めてうろうろする生ける屍になってしまう。
初心に帰り、どう考えても人として高みを目指す身として自分は間違ってないと確信できるのならば、例え濁流に呑まれたとしても意志を通し行動し続けることだ、と私は説くことにしている。正気を保てと。イヤな思いをしたと言ったって相手はどうせ職場とかのほんの数人にすぎなかったりする。それを相手に自分だけが落ち込むなんてバカげている。多数にのまれ、自分の意志を引っ込めるならば、ゾンビとなる。そして生肉を求めてソウルを求めてうろうろとさまよいつづける屍となるのだ。それでいいのかと。
岡本太郎も言っている。目の前に現れる障害は意志を断念させ諦めさせようとするが、それらは自らを磨き上げる触媒にしか過ぎないのだ、と。。それらを克服することで自分が磨かれる。
自分は何をしたかったのか、それを思い出す時間と環境を死守することからだろう。極論を言えば、ネットやメディアから離れ、携帯を切り、本当の意味で「自分だけと向き合う」ことから始めてみると見えてくるだろう。時代の濁流に流されてワラを掴んでいる姿は本当にどうかと思うし思っている人も多いだろう。まあ濁流を流す側ならこれほど痛快な時代はないだろうけども(笑
まず自分の意志があり、そして先に時代との対峙、距離感がある。
ジョジョで、負けてなくとも負けたと思ったとたんコインにさせられたエピソードがあった。気持ちで負けないことである。
ようやく試作が「つまらない」と思えるようになって一段落した。
おかしな言い回しだが、ようやくである。姿は見えないが、軸が存在することがはっきりした段階である。
すでにバージョンは480を越え、幾度も革新的なアイディアを投入しては廃棄して、を繰り返してきた。
BAKUMANで言えば「俺この連載辞めたい!」みたいな苦しさ(笑
通常ゲームを制作する場合は、作っていくうちに追加した要素の方が膨らんで最初の思いつきはどこかに消え失せ、こんなんできました、みたいなことなのが私の場合は通常である。そういう意味では最初のアイディアというのはしんどいプログラミングを乗り越えさせるエネルギーでしかないのかもしれん
ところがこれが仕事とかになると、少々の条件などがあってそこから離れるわけにいかず、それが鎖につながれた犬みたいになる。ガオー!と走ろうとしたら、ビーンとなったり(笑)
また最近気付いたことだが、ゲームとしての分りやすい設計やインターフェイスと、ゲームの面白さは別であるということである。どうしても作り手としてはその分りやすい設計とゲームデザインは不可分なことが多いので、どうしてもその解決に専念しその解決に快感を得るループを持ったりしてしまうことも多い。いい感じの操作とデザインなのだがゲームになってなかったりする。
軸がないうちは、様々なアイディアを投入すると、相互干渉することが多い。それぞれはすごくいいのに、一緒にするとビフテキにお汁粉。軸があれば、投入するアイディア自体が軸を配慮したものになる。他人と会話しているとき相手のしゃべりをじゃましない、みたいな。みんなが一斉にしゃべるとメチャメチャなのである。そんなときみんなを黙らせる強さこそが政治的リーダーであり、他のアイディアを従わせる強い面白さこそがゲームの核となるのだ。
坂本龍一氏はYMO全盛期の頃新聞で、清涼飲料水みたいな音楽でも毒はある、と言われていた。
なので、彼の言う毒とは岡本太郎の言う作り手の狙い個性みたいなものだと思っていたのだが、
最近読んだ、坂本龍一氏と諸井誠氏の対談で、
生まれてから刷り込まれた文化や好みなどを毒と呼び、それらを排除したいがために電子音楽やクセナキスのような論理に向かったと話している。つまり世俗が毒。
私もゲームを作る上で、そういう意味での毒、例えば今現在でいえば、萌えアニメ絵の立ち絵を入れるとか、CV(声優)を入れるとか、レベルアップとか武器合成とか敵属性とか、音楽で言えば、先人のフレーズやニュアンスを出し暗黙に魅了するとか、まあいわば、買い手をhookさせるためのそういった毒の要素をいかに排除し、かつ同時に、主従を見極めつついかに敢えて組み込むか、をコントロールしようとしているので、この話は非常に共感できる。
だがしかし
脳への情報という観点から言えば、
「いい音」だって毒そのものじゃないの?ともいえる。そもそも毒がないということは歴史の継承がないわけで、普遍性を持ち得ないことも意味する。まあエル・ブリの言う「模倣と影響は紙一重だがまったく違う」で言うならば、模倣は継承していないが影響は継承しているということである。頭で真似るのではなく、気づいたら影響されていた、そういう状態を保てるよう行動するのだ。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
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