|
このところ、jazzセッションですごく困っているのが、ドラムソロ、である。
---
ドラムソロというのは演奏の途中に、32小節くらい、ドカンと投げられ、
「好きに叩け」という場所だ。
通常、ドラムソロなんてのは、ドラマーはみんな大喜びで「オイシイ場所」らしいのだが、
私にとって
バンド演奏というのは、個人芸の合成ではなく、
コーラス合唱、素材を活かした料理、
(=個々がうまく混じりあって一つのものを作る、塩だけ利いてもしょうがないとか)
みたいな
位置付けでやっているので、
全員で一つのある形を構築してきた果てに、
自分ひとりだけ
で
「何すんだ?」みたいに思ってしまう。
音楽全体の流れの中でのそのドラムソロの在り方、をすごく考えてしまうのだ。
特に
ドラムは音程が出ないので(ニュアンスを出す境地は別途あるが)フレーズ的な即興が素人目わからない演奏になりがちだ。
---
通常の曲の演奏に限らず、即興においても、
大事なのは、今、目の前に聞こえるフレーズやリズムではない。
絵画などでもそうだが、描かれた色や配置などから、何を感じさせるか?
が
すごく大事な「効果」なのだ。
効果がないなら、その技術、上手さ、演奏、パターン、は
すべて意味のないものだ。
(もちろん目的のための技術があった上での話だが)
他の人がいて、曲があったり、
演奏開始から今まで、その場の演奏者皆で築いてきた「何か」がある。
自分ひとりで叩くなら、好き勝手に叩けるが、
そういった、何か、を踏まえる必要があるのだ。
つまり、
その瞬間のメンバー全員の総体が共有できた、暗黙のグルーブを養分として大きく幹を伸ばした大木こそがドラムソロだと思うのだ。つまり、自然発生するようなもの、だと私は思っている。
---
そういった過程というのは
創作活動や会社とか人生とかすべてに当てはまる気がしていて、
環境とかチームとかいろんなベースメントが噛みあって回り始めたとき、自然といろいろな面白いことが発生しはじめ「ああしたらどうだろうこうしたら面白い」と誰もがやり始め、猛烈にすべてが回転し始める。その結晶が作品だったり会社の成長だったり社会現象だったり文化だったり人間関係だったりする気がします。
なので、
そこまでに至るまでの努力や尽力、あれこれ
が、
実はすごく大事で地道な努力と言えると思います。
---
なので、
ドラムソロがうまくいくときには、
演奏していた全員が、見えない何か、グルーブを共有できている。
一般的には「熱を帯びた演奏」として受け止められる。何がいいかわからないがすごい、という状態。
そういうときは、頑張る必要がない。
その曲のテーマとか、パターンとかに頼る必要がなく、
好きに自由にドラムソロをすることができる。
なぜなら、体に暗黙のリズムが回転しているからで、
もう
始める前から、勝ったな(※1)、と思え、
手足が自由に伸びたかのように感じられる。
先日灰野さんの声にドラムを寄せたときはまさにそういう状態だった。
---
一方、全員で何かを完全に共有しきれていないとき、
例えば、
灰野さんとの演奏の終盤、ドラムソロを投げられたような状態になり
すごく困ってしまったのだが、
これはjazzセッションでのドラムソロに困っている状態とまったく同じだなと
感じた。
うまくいっているときはいいが、
何かをまだ共有しきれていないときに、どうドラムソロをするのか、という根源的な問題だと。
このあたりは、カンブリア宮殿で、村上龍氏が
「状況に合わせて決定するのは意思決定じゃない」
と言っていたことがこのところずっとひっかかっていて、それに近いような気もする。
かといって
状況を加味しないなら、一人でやる方が効率がいいから一緒にやる意味がなくなる。
ゲームのアイディアなんかでは、「いやいやそうじゃなくこうだ!」と示唆できるように、
演奏においても、「こうだ」と示す必要がある。灰野さんはそれを体現してくれたように思う。アンサンブルの延長にあり、かつ、状況を打破できるパワーと技術。
それが、先日思った「武器」なのだろう
jazzの基本的なグルーブを取得する、ということで、もう3年以上チャーリーパーカーをドナーとして腕を鍛えている(※2)。
pakerのスリルを追っていると、エルビンもキースリチャーズも、果てはグールドでさえも「唸る」(演奏しながらウーウー言う)のは、速度を落とさないためと、緊張感を失わないためだ、というのが、自身が唸り初めてわかった。
なので、最近はテレビなんかでドラマーが空気が抜けそうなフィルを叩いているのを見ると、イライラするようになった。もう、そのヌルい一打で、空気がプシューと抜けて演奏全体がだいなし、くたくたになってしまうのだ。だからこそ、そうならないよう、必死になると、どうしても唸るハメになる。
---
で、pakerから最近
ようやく、マイルスをドナーにし始めている。
先日たまたまマイルスを聞いてて、根本的なリズムが違うことに気付いたからで、
今週ずっとやっているのは、
ブラシで、ハットの「チー」の快感をどう出すか?という鍛錬である。これがなかなか出なくて苦戦で、手が痛い(笑
面白いのは、
根本的にリズム構造が違うらしく、こっちは唸るのがジャマになるのだ。ほほう!
チャーリーパーカーが晩年、酒と麻薬に溺れていたのは、
ステージに立っていない日常に耐え切れなかったからではないか、とつくづく思うようになった。緊張感のない何気ない普段日常が耐え切れない。気が狂いそうである。※3
スリルを追い求める者「スリラー」の宿命、であろう。
---
脳の構造を突き詰めていけば、すべてはバランスで成り立っているだけで
物理結果により現在があることがわかるが、
未だに迷信というものがあり、宗教があり、神が存在する。
ここまで科学が発展し
わからないものなど無い世界になったにも関わらず、だ。
つまり、
淘汰とバランスという観点からすれば、
人類が
ここまで生き残ってきたのは、
迷信やよくわからない状態を許容することでここまで残ってきたのではないか、ということになる。
やはり人は、信じたいものを信じたい。それが生存に大事なファクターといえる。
思えば、物理的な真実に追ったり突き詰めた人間は、大抵生き残っていない。天才などみなそうだ。
真実がいかに神秘に満ちておらず、ただ単なる物理現象であることや現実の退屈さに耐え切れず
早期にその生命を途切れさせてしまう(もしくは世間的に迫害される)。
だが、しかし、
その天才が残した種は、何も考えてない人々にありがたく、その恩恵だけが継承されていく。
つまり、天才とは、突然変異的に発生し、人類に刺激を与える、物理的な子孫を残さない存在と言えるのかもしれない。存在は毒だが果実は甘いのだ。脳とはいかに神秘に満ちているか、などと信じられる人は幸せだと思う。りんごをかじってしまったらあと戻りはできないのだ。テレパ椎とか、マトリックスの赤い薬みたいに、真実の重みに耐えられるだけの好奇心があるかどうかである。
---
一方で、
脳の構造がわかると、非常に便利で、
昨日など、
ベースのバンドで、ボーカルに合わせて譜面のキーを下げて、なんてことがあったりするが、
やったことがなくとも、見た譜面のコードを下げて手にどうつなげるか、その繋げを瞬時に行うために、どのように思考をすれば格納され体系的に体得できるか、ということもすぐ対処でき、対処と同時に学習にも繋げるようにできる。
また、よく聞く話で
「腕を切り取った人が、無い指の痛みを感じる」
とあるが、
この現象を応用すると、
腕がある人が、無いはずの痛みを感じることも可能
ということになる。
これを応用し、
例えば、私などまだまったくフレットを見ずに演奏はできないのだが、
フレットを見る代わり
に、
見た映像を思い浮かべる
ことにより、
見ていないのに、ないはずのフレットを見ているように演奏をすること
が多少できるようになった。
つまり、実際の目で見ている情報の代わりに、脳からダミーの情報を送ることで可能とするのだ。
(これは例えば、何か過去のことを想起していて気付くと、目の前の映像を切って過去映像を見ていたことに気付くアレ、を意識的にやることになるのだ)
この方法は、電車の中で、例えば譜面などを見て、
普段ベースを持っているとき自分の目から見えているフレットの映像を「見る」と、
そのフレットを「押さえることができる」。
そして演奏してもいないのに、コードを探り運指を確認することができるようになる。
コツとしては、
いつも弾いているときのように首を傾けそちらを向く、とやりやすくなる。
そのとき、
押さえた位置に対して音が紐付けされていれば電車の中で演奏練習が可能になる。
さらに、
間違った場所を押さえて「ミストーン」が聞こえてきたら、しめたものだ(笑。
「ここかな?」と押さえたら違う音が「聞こえ」て「あ、間違えた」と分ればもはや境地、かなり便利だ!
長期密着取材で有名な、TBS情熱大陸にデザイナーの吉岡徳仁さんが出ていた。その中で
「デパートがなくなっていくのは不況ではなく、夢が利益に変わっていくから」
といわれていた。利益!!そうだよ!利益とは、つまりビジネスである。
---
先日無くなったマーチンガードナー氏、あとお世話になったNOBさん(芦ヶ原伸之さん)のパズルなどを見ていてもわかるが、
本来ゲームは、トランプとか、ボードゲームとか、今もう絶滅しただろうか、子供の缶蹴りとか太平洋とかだ。長いことその遊び方が受け継がれてきたルール、だ。
そうやって考えると「面白いゲーム」が実は、そうそう生まれるわけがない。ゲームで遊ぶ、というのは、有閑倶楽部、余裕のある者の余暇にすぎない。
暇つぶしに手に触ったものをいじくりまわしていたら、すっごく面白くなっちゃった!というのがゲーム本来の形だろう。それをみて「こうしたらもっと面白い」とか周囲がどんどん面白がって付け加えられていく流れ。
で、その余暇はどうやって作り出されるのか。
富裕層はその富にて、地べたを這いまわるものは自らの血にてそれを補う。
---
つまり、ゲームを作るということは、もともと高度な暇つぶしであり、利益のため、というのは極めて不純なことだとかねてから私は思っている。
面白い遊びを「これ面白いでしょ?」と分け与える行為が結果的に販売になるのが、ゲームビジネスの正しいあり方だろうと思う。
これを外れてしまうと、作ってあと知らない、という作業になる。そして面白そうにお化粧して売り払う。かつてのクソゲーは一般的でないだけ伝わりにくいだけで基本はゲームがあった。昨今は化粧(映像とかグラフィックとか萌えキャラとか音楽とか有名人とか)がそのまま乗りやすいし、そこに制作費を食われがちなので、本体にはゲームがなかったりする。あってもゲームシステムの残骸だったり。いっきなクソゲーは語りつがれたがカスゲーは相手にも話題にもされない。中身のない、ただのカスなのだ。。そういうのに当たると、105円でもムカムカする。時間を返せ。どう良く解釈しようとしても、もともと入れようとしてないんだからあるはずがない何もないただのゴミだ。ゴミを売って平気なのだろうか。詐欺じゃないか。。捨てたゴミは誰かが拾ってんだぞ。
昨年新聞の投書に輸出リサイクルビジネスの経営者が「日本製の家電は壊れにくいと評判だったが、ここ10年くらいすぐ壊れるのでいらない、と言われる品番が増えた」とあった。これは、自らが苦しいのでそのツケを消費者に回しているケースだ。他山のこととは思えない。つまり、大人とは、自らの人生をまっとうし他者に配慮できる余裕を持つことだといえる。大人でない人間は、他人に自分の苦境のツケを回し、知らん顔をする。それを「ビジネスだから」「仕事だから」と理由をつけて無神経になっているだけな気がする。人としてどうなのか。
しかし結局、クオリティを守ったり、遊ぶ人のことを考えるというのは、
最悪の事態に追い込まれたときにどれだけ意志があるか、ということだけに過ぎない。これは先日書いたセンス、ということと同じで、もう何がなんだかわからなくなっても必死に守ろうとすること、それこそが意志であり、目に見えて残るセンスなのだと私は考える。
---
一方で、
人間誰しも、苦しいときにベストを尽くせるとは限らない。生来(開始資源、生育環境)ゆえの弱さは仕方ないことだし、自らや家族の命を守るために他人を見捨てることもあるだろうがそれは仕方がないこと。だからこそ、くだらない冗談を言い合い笑える余裕のある日常を、命をかけて維持し守る、より向上させる行為こそが、平和のこころであり良心であり意志でありセンスであると、私はこのところ確信している。
農業や園芸など、体を使った反動なのか、音楽にようやくスイッチが入った。
アナログシンセ、nord 2xを、YAMAHA DX-7につないでの演奏。買ったのが3月、ずっと机の横に立ててあった。動かすまで3ヶ月かかったことになる。
それにしてもすごいのは、もう20年以上昔のMIDI規格がいまだに現役である点。
音色が違うとできる曲も違う。なので切替ながら2曲ほど出来た。この音色によってフレーズが左右される点こそが、一旦私がMIDI音楽から離れた理由だった。バイオリンの音色には、バイオリンの音色にそぐうフレーズが実は要求されていて、オリジナルであろうとするアプローチが抵抗される。
そうなると、音色が持つ記憶がフレーズを生むことになり、つまり、その音色を作った人の記憶に帰っていってしまうのだ。なので、そういった恣意的な記憶のない、汎用アコースティック楽器に曲作成を求めたのがここ10数年だったように思う。
しかし、このところ、そういった流れ全体を大幅に見直している。音色の記憶に帰ることを避けたのに、周囲のバランスを取った結果自分に帰らない結果になっていたのではないか、ということの検証をここ数ヶ月行っている。
例の「意志決定」というヤツだ。それはきちんと行使されているのか?という疑念の検証。
このところずっと鍛錬してきた空気や呼吸を読むスキルは、
クオリティの高い低い関係なく合わせられることが良くも悪くも機能することに最近気付いたのだ。それにしても、どうして自然体のままで居させてくれないのか;;
併せてこのところ、
無意識に決定している基本行動、を断ち切ったり敢えて選択したり
している。
決して選択しなかった行動は、選択すべきでなかったのか
それを選択したらどうなるのか。
NHKの坂本龍一のスコラ「音楽の学校」でYMO制作の話しが出る。バックにはアルバム「BGM」の体操がかかっていた。
実はあれは細野さんの生ベースで、ファンである坂本氏が弾いてもらいたかった、と話していた。
説明シーンに流されていた「体操」のベースラインは、たぶん、かつて収録のアルファスタジオでその場で弾いたものだろう。
だが、あの、「ベーエブー」で始まる体操のあの音源は、
タイミング、音色、なにからなにまですべて、
私がさんざん聞いたCDの音源とまったく同じ、異なる場所はない。
すごーくあたりまえのことだが、
ふと、
これがレコーディング、ということなのだ、とわかった。
---
レコーディングする、とよく言った。
5,6年ほど前、パーソナルレコーディングがはやったし、CD-Rでラベル印刷して自主制作CDとか作るとかあった。
例に漏れず、私らもD16をつかったりマイク立てたり録音にいそしんだ。だが気づくと、結局未だCDを完成させていない。
何かが違う。
ずっとその理由がわからなかったが、今わかった。
---
NHKの「英語でしゃべらナイト」のopタイトルにはビートルズのヘルプ!がかかる。
このヘルプは、時々ラジオでかかったりするものと演奏の仕方も歌い方もまったく同じだ。
同じ音源を使っているからである。
世界中の誰にとっても、ビートルズのヘルプと言えば、この音源だし、これしかない。
ライブでビートルズが違った弾き方や演奏をするだろうが、ヘルプとはCDの音源ひとつを指す。
つまり、
あのグループのあの曲といえば、これです、と言える音源を作ること、
そしてたった一つのそれが、
うまくいったところも間違った場所も気に入らないところがあったとしても、
それが、
ラジオでも、ベストヒットUSAでも、テレビの番組のバックでも使われる。過去にこういう曲がありました、と引き合いに出されるときでも、公民館の市民の集まりでかかっても、iTunesで落としても、まったく同じものが。
そういう性質の音源を仕上げること、
それがレコーディングでありリリースの目的といえる。
なので、
単に演奏を録音してエフェクトかけたり出来上がりを仕上げたり、mp3にしてwebに並べたりすることが音源制作ではない。
--
これでようやく音源制作の基準が生まれた。これを満たすように作れば音源になる、ということになる。
なので、以前作ったこれ
あなあくあくま(HP)
は
「音源」といえる※4。
一部間違えたりしているがもう「これしかない」。だから私は置いたのだろう。
ビバップは裏だが、モダンは表にアクセントがある。
なので、
t-t(n),tt-
を
t,tt(n)- t,tt(n)-
と
やらないといけない。
なるほど気づくのは、モダンだとトップにシンバルが入れられない。逆に、裏だと楽に入る。そして裏に入れてみると、なるほどモダンのシンバルヒットになる。なんとも物理にそぐうものだなと感心する。
レガートをする手の運動的には位置がシフトしただけ、だが根本的にリズムがやはり違うらしく、
先日1時間スタジオで叩いてみただけで、次の日、ひきかけていた風邪がどうでもいいくらい腰痛に見舞われ難儀した。
しかも仕事の打ち合わせあり、スタジオありでもう助けて、みたいな。
なので、今日は30分くらいに収めたがそれでもしんどかった。
何事も、
初めてにはエネルギーを要するのだ。。
夜半まで音源制作。
最初はFM-7のFM音源(おそらくDX-7と近いチップ)に、アナログディレイをかけて、と考えていたのだが、今聴くと思ったほど使えねーとなり、しょうがないので使っているシーケンスだけ拾って、nord2xにディレイをかける流れでの作成に。
気付いたのは、ディレイをかけた最終出力を聞きながら演奏しないと波形レベルで不具合が起きる、という点だ。ディレイをかけない出力を聞きながら演奏し、ディレイをかけた音を録音するとまるでダメ、面白いものだ。
逆に、ディレイの速度とか回数とかに、演奏の速度とかが影響を受けたりする。へー。
--
このところ気付いたのは、諸悪の根源は、ソフトウエアなのだ、ということ。いかにソフトウエアにdependしないか。オライリーのmakeだって最初はハードだったのに、だんだんチッププログラムになっていく。それは非常につまらない※5。
物理演算のライブラリとかあるのだが、
思えば、自然界では
何かと何がぶつかったときに
どのように挙動し
どういう音がでて
どう反応するか
それらすべての反応がすべてプログラム済みだ。
それらを利用しない手はないんじゃないか
と
思い始めたこともある。
ソフトウエアは、それらをすべて再発明、再設定、定義をしなければいけないのだ。
それをできる天才(もはや創造主そのものである)、それをしたいモチベーションがあるならやればいいが、
そこに執着がないなら、
自然物理演算を利用するのが吉だと思うのだ。
なので、midiでのシーケンスコントロールの正確さは欲しいが、ソフトで扱いたくない、というワガママだ(笑
消費活動、
その決別を徐々に開始。
検証してみると、なんと消費活動の多いことか!
--
特に東京は遊ぶものが多い。ほしいものもすぐ手に入る。
NY在住の坂本龍一も東京に買いに来るし、海外アーティストも西新宿のブートを買いに来たりする。
ネット社会になって消費活動は無敵になった。
だが、
モノを買う、見るという消費活動は、あくまでも受身本意、相手任せだ。
あれほしい、これほしい
と言えども作ってくれる人次第。
欲しいものを自分で作り出す=コントロールを自分に取り戻す
これこそがモノ作りの第一歩、そしてそこへは消費ループからの脱却が必要なのだ。
|
|
|
このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
※1
アニメ新世紀エヴァンゲリオン内の有名なセリフ。
※2
ドラムをコピーするのではなく、あくまでもpakerのアルトsaxに合わせて叩く。合わせ方は簡単で、saxのメロを潰さないようにドラムを叩けばよい。普通に叩くとメロが聞こえなくなるので、聞こえるように叩くためにはpakerの呼吸とメロを把握する必要が出てくる。これは音量の問題ではなく波形レベルの問題となる。
※3
NHKの坂本龍一スコラにて、細野さんがチャックレイニーがいいということで、持っていた教則VHSを改めて見たら「音が汚い・・」と思ってしまって、また一つ失ってしまったと感じた。突き詰めるとは失うことなのか。。
※4
リリースするためのマスタリングがまだですが;
※5
もちろんソフトウエアにはソフトウエアの面白さがある、という当たり前の前提の上でのハナシです。
|
|