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日頃の行動をメモ。消しゴムで消して作品へと昇華する前の、日々の下書き。
This is my dairy memo. These will be a work after brush up process. .




    2010.APR

4/2 古いデバイスアイディア

このところ、iPhoneでは実現出来ない既存ゲーム上の操作、というものもわかってきた。
タッチ操作だけだと、トリガー感が出ないだけでなく「物体を押せない」。

つまり、既存コントローラの方向レバーは、バネによって戻ってくるが、
その機構が、実は「押す」という実感を生んでいたということだ。移動も同じ。
実際、iPhone上では「モノを押す」を実感させる操作形態は不可能に近い。自機を操作して何かを押したりが難しい。これには結構頭を抱えている。傾けて押させても「ゴリ押し」ができないのだ。困ったなー

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先日記載したブロックアプリpcは、実は2003年のアイディアで、もう実現しないというのもあって放出したわけですが、

そんな中
iPhoneの押すということに関連し、

古い資料の整理で、 「もう実現しないけど面白いアイディア」というのが出てきて、
「へー」と思ったので、
それを記載することにしておく。


これも2003年ごろのアイディア。携帯機を想定?PSPっぽい。

当時アナログレバーというものが増えてきたのだが、
アナログレバーではせっかくの特性である、微妙に傾けたままにするとか、急にすこし傾ける、という操作が大変つらい。
ツライと、プレイヤーはそういう遊び方は避けるようになる。64のスーパーマリオなんかではそれを、モンスターを起こさないようにおそるおそる横を通り抜ける感じをうまく出したが、それだとおそるおそる操作しか対応できない。つまり新しい操作形態としては汎用性に欠ける。。

なぜなら、ゲームの操作というのは緊急回避、がほとんどで、敵をよけるのにレバーを倒しきらずに途中で止める、それも急いで瞬時に、というのは物理的心理的にほぼ不可能に近い。それをプレイヤーに強いるのはかなり無理がある。もう、いきなりmaxまでガッとレバーを倒してしまうのだ。
かつてボタンの強弱でパンチが変わる「ベラボーマン」というゲームがあったが、そういうファジーな操作はそれっきりだ。やっぱり敵が前に来たら必死にベシベシ叩いちゃうよねえ(笑)

で、そういった問題を解消しようと、
左側の、方向キー部分をすべて、まっさらなノートパッドのような平面にする案が上記。
タッチパッドなら、ちょっとずらして押さえるだけで微妙な方向移動を楽に保持できる。
ちなみにパッドの表面はざらざらさせる(微妙に指をズラせるようにするためだ)

一方ボタンを押したトリガー感は残したいので、右手側にボタンを残している。

ただ、当然この平面だと、ニュートラル(中心)がないため、iPhoneゲームでも見られるが、指先がずれていってしまって、気付いたら操作できない、という事態になりかねない。

その問題の解消として、以下を考えた

平面なパッド部分を、すり鉢状にする案。
荒川修作氏の養老天命反転地みたいな(笑)パッドもサターンぽい

パッドが半球状にへこんでいるため、底面が中心とわかるし、
中心から離れたときに、傾斜により、指に圧力がかかるから、どれくらい離れたかが体感できる。

当時心配だったのは、指を回転させる操作が難しくなってしまうのではないか?ということだが、今シミュレートしてみると問題ないかも、と思った。



で、今日考えた、回転動作の補助

すり鉢状のタッチパッド内面に、
円を描くようなかすかなでっぱりを、何層か設ける案

指先ででっぱりをガイドに回転させれば、中心から定距離で円を描く操作ができる。




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まあ、昔のアイディアはそんなところ!

さておき
iPhoneでは、ニュートラル感と、押したときの抵抗、さえ作れれば代用は可能でありさまざまな欠点は解消できるだろうと思っていて、現状いくつか検討している案があるが、
既存のゲームインターフェイスをそのまま流用するのは無理で、そぐう形をデザインすることは避けられない。

平たく言えば、新しい機種ではそのハード特性にあったゲームデザインをすべきなだけなんだけど、
あまりにも手足を奪われててしかしそれが気付きにくい現状があったように思う。



4/4 イライザ演奏

jazzセッションにおいて、最近はプロの方々が容赦なくなってきて、嬉しくも死に物狂いな状態なのですが、
ああ、これイライザ通信なんだなあ、と気付いたのでそれを記録しておく。

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いとうせいこう氏の小説「解体屋外伝」において、「イライザ通信」と呼ばれる概念が出てくる。

イライザとは、いわゆるなんちゃって人工頭脳の走りだが、そのフェイク対話に似ていて名づけたのだろう。

主人公「解体屋」が、「師」からCDを受取り、それを再生する。

師は、「元気か?」とか「最近どうだ」とか問い掛けてくる。
それに対し、解体屋は「はい、元気にやっております」とか答えるのだが、

言うまでもなく、再生しているのは「CD」なので、一方的だ。
それに対し、「不自然にならないよう」受け答えをしていくのだ。陣内的というか(笑

師から「最近妙に騒がしいが、何か知っておるか」と問われれば、具体的な答えをする必要がある。
答えたあと、師がまた答えを返してくる。自分の答えが間違っていれば、ちぐはぐな会話になってしまう。

師の言葉に含まれるものを慎重に感じ取り、適切に答えていけば、自分の応対の積み重ねから、自分の口から、師からの暗号が出てくる結果となる。何も知らない人が適当に応対しても、決して師の言葉に含まれている暗号は読み解くことができない、という高度な通信だ。

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jazz演奏でも、テーマなりリズムなりのある想定の元、全員が演奏している。
jazzでは初めて合わせる人や曲だったりすると、他の人の演奏に対しての自分のドラムのリズムなり合わせなりが、解体屋の答えみたいなものになる。

どこかで応対を間違えてしまうと、積み立ててきたものがすべてちぐはぐになってしまう。
小説でもそういう場面があるが、どこかで間違えて徐々にズレていき、あるとき表面化し「あれ?え?」みたいになったりする。それは自分の注意深い読み解きが甘い、ということでしかない。どこかを間違えたのだ。
そうなると最初からやり直すしかないが、最初からやり直すと記憶(師がどう話してくるか)がノイズになり暗号が見えにくくなるし(これはテストプレイを同じ人に何度も頼めない理由と同じだ)、jazzだと演奏中やりなおしができるわけないし、また、同じ曲をまた演奏するその機会はなかなか訪れないものだ(だからこそ一瞬に注意を払い答えを出す)

非常に示唆的ではあるが、つまり、人生においても同じなのかもしれない。
その瞬間瞬間、注意深く読み解き、正しく答えを重ね、暗号を正しく受け取る。一期一会とは、このことなのかもしれない。瞬間瞬間をまっとうせよ、と。



4/10 ネットゲームビジネスの果て

深夜に帰宅して一段落したら、ネットにつなげたXBOXにお試し版を落とすのが日課だったりする。面白いことに一度にダウンロードできるのは29コまでなので、だいたい毎晩、リスト一杯になるまで登録したら後は落とすに任せperl青本読んで一日を終える。

xboxは実は古くからサービスを行っていたのだろう、とにかく膨大な数のお試し版がある。インディーゲームと呼ばれる未審査のアマチュアゲームもかなりある。未だにすべて落とせてないが、まあどれもそれなりに面白い。

そんな中、
すっかりご無沙汰になっていたPS3をひさびさにネットにつなげstoreでお試し版を探した。
残念ながら新規は無かったのだが、このとき

 「なんだないのか」

とガッカリした自分に「おや?」と思った。

まだ遊んでもいないお試し版がそれなりにあるのにも関わらず!
なんだろう、この心理は・・・

直感的に、この流れはマズい!と思った。

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いろいろ考えてわかったのは、お試し版がインターネットコンテンツになってしまったのだ、ということだ。

インターネットは、無料、随時更新、これが基本だ。

インターネットのblogなりで更新がなされないと、死んだも同然な感じになる。
毎日変化することが、ネットでは生きている証明なのだろう。


パッケージで売れなくなったのでダウンロード販売になり、パッケージでの適性価格がダウンロード販売だと高値に見え売れないが、制作費上価格は下げられない。そこでお試し版を用意した。そこまでは良かった。

しかし、そのお試し版が膨大にあるのが問題なのだ。

遊び手から見れば、大量のお試し版を右から左へ遊んでいるだけで時が過ごせてしまう。
きちんと作り込まれたゲームを楽しむ、のも、そこそこ遊べるゲームで時間を潰すのも、遊び手から見れば同じなのだ。そこにゲームそのものの価値のヒエラルキーはない。ネットで次々リリースされるFlashゲームを遊んでるようなものだ。

もちろんお試し版なので、最後まで遊べないし、なによりもパッケージと違うのはあとからパッチを当てて更新できる、という作り手のヌルさもある(もう今しかないんだ!という真剣さと、次があるさ、というゆるさはお客に十分伝わってしまうものだ)。そして何より、無料で落としたがためにありがたみがないので、やり込めば面白いだろうはずのものも、簡単に右から左へと流される。

つまり、お試しのためのパッケージが、
無料版の随時更新、というネットの嗜好性にシフトしているのだ。作り手からみればこれは非常にマズい状態である。釣り人みんなが撒餌を撒くので、肝心の釣り針のエサに食いつかなくても魚が満腹になってしまう。
パッケージや製作社名は無名化が進んでいる。本体は、xboxとかiPhoneとかyouTubeといった認識名称で語られるのにも関わらず。。(この無名化については根が深いので後日記述する)

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ネット時代になり、それまでのメディアなりのハードルを超える努力をしなくても、自分自身がメディアになりお客に届けられるようになった。だが、それは自分自身が営業して回る必要が出てきてしまった、ということも意味する。これが私が以前書いた、広告ビジネスになる、ということである。かつて自分のゲームを発表するには、コンテストに受かったり雑誌に載るような作品のクオリティを努力する必要があり、受からなければ発表できなかったが、それは純粋に、自分の畑の努力であり、他の畑である「営業努力」が必要なかった。通りさえすれば万人に知れ渡る、これがメディアの機能だった。

通らないのには大抵理由がある。成功に不思議はあれど、失敗に不思議はないのだ。失敗の理由を通ったものなどから学んで自分を高めていく。それが大事なことなのだ。ゲームセンターだって、インカムの高い台だけが残っていき、その結果面白いものだけがいつも並んでいるという淘汰があった。狭い場所を取り合って競うのは資本主義の基本だ。しかし今や競争しなくてもなんとなく社会に出られるようなイメージがある。決してそんなことはなく、その代償は見えない形で支払われていることを認識しなければ危ないように思う。

つまり、
ネット時代では、
分散している作り手たちが集まり、自分たちで淘汰の一つの山を作らなければならない、ということになる。
個人個人努力して営業するのではなく、ゲーム作り手が集まる総本山を作り、そこに価値を集約させる必要がある。地域貨幣、地方雑誌、地区大会、銀座店舗、渋谷109、みたいなものだ。これは私が以前から書いているプロデュース(編集)そのものである。つい最近までは、新聞テレビ雑誌などがそういったヒエラルキーの機能を担っていた。そこを見れば詳しくない分野でもだいたい流れを眺められるというショートカット。ところが今それらが足元を食われ機能不全に向かっている。ヒエラルキーがないと数だけが増えていく。ただ集合している数量の恐ろしさ。カオスから金を拾える人だけに情報が集まっていく。情報格差の根源がここにある。

残念ながら、apple storeや、playstation store、xbox LIVEなどにプロデュース的な機能も様子も見られない。ただフラットに並んでいる。しかしこれはインターネットの特性なのである。インターネットはよい面も沢山あるが、一方で絶対零度に向かう宇宙の冷えのような怖さも持っている。保存エリアが広がれば、見る人の濃度も分散し薄くなっていくのは当たり前なのだ。



4/12 ベース

昨日非常にひさびさなのだがベースでスタジオ入りして、火がついたので今朝朝からstevie wonderの、As if you read my mindとかpaulのsilly love songとかをペロペロ弾いてたら、もう手首が痛い。痛いのにまだ弾きたい!
寄生獣で、壁を殴ったら手が折れ「人間の体はもろいものだな」というセリフがあったが、まさにそういう気分。。



4/15 受け取ったことを示す技術

昨日は「鳥をみた」高円寺missionsでのライブで、中音が悪く死に物狂いにバランスを取っていたため今日は体中が痛くてさまよっていた。8月に灰野敬二さんダモ鈴木さんとの共演がそのまま決定したらしいので、評判はよかったらしい。灰野さんは普通に法政祭に呼ばれるギターゴッドで、ダモさんはドイツの伝説の「CAN」の日本人ボーカルさんです。

見知らぬお客さんに「すごく良かったです!」といわれる機会が多くなり、新たな課題に直面している。

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jazzのセッションでは、
例えばsaxソロがあったりpfソロがあったりした場合、32小節終わったら次の楽器のソロになるが、
前の楽器から次の楽器へ、違和感なくキレイに渡してあげる伴奏をするのがドラムの大事な役割だ、と言われている。

ドラムソロのときも、ドラムソロは大抵最後のソロなので、終わったらテーマリフに戻るわけで、そのときに、お客さんが自然と拍手ができるような叩き方と流れを作ることがプロとしては非常に大事であることを痛感する。

お客さんはよかった!と拍手をしたいものだが、その拍手のキッカケを作れない、ということはサービス業として不誠実ということになる。

それと同じで、
お客さんに「今日は良かったです!」と言われたとき(昨日も言われた)、その方が私に何かしらの感動を私に伝えた確証を得て満足して帰路につけるような返答の仕方、も必要なのだ。

つまり、拍手と同じであり、こちらがそれをきちんと受け取ったよ、という言葉なり態度なりが出来ないと、感動が迷子になってしまう。それは非常に不誠実なことなんだな、と。ゲーム作っていると、作品出せばいいので、そのあたり不慣れだったのかも、と思ったりもする。ぶっきらぼうになってしまうのだ(すみません、でもちゃんと受け止めてます)。

こういったことを思うのは、このところ弟の子供を預かって相手をしていたことが無関係ではないように思う。話を聞いて「そうか、そうか」と態度を明確に示す大事さ。ずっと忘れていたことのように思う。
子供が生まれて育てる過程は、そういった大切なことを思い出す機能も含んでいるのかもしれない



4/15 ゲームメディアの形のアイディアメモ

今日ふと思ったことは、

携帯ゲーム機はいずれ、
ブラウザ、つまり、コンテンツを受け取る箱、つまりメディアになるんじゃないか、ということ。

もう一つ、
ツイッターのように、
フォローされたりタンブラーのように引用されるゲームアプリ、という形が面白そうである。
面白いゲームは沢山の人からフォローされる(笑)

そうなると、47氏(winnyの金子勇氏)が言われていた課金モデルの形が必要となる。これは必要なのに未だに解消されてない課題の一つだ。多分特別パケットでプロバイダ課金とかしないと無理かもねー。



4/16 incognito

昨年のshootingでの無茶が効いて、もうずっと具合が悪いままバランスを取りながら生きている感じ。
瞬発的な行動は出せるが、その代償が後日にすべて覆い被さってくる。なかなかリカバーしないのだ。大丈夫なのだろうか、という不安は尽きない。

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このところずっと考えているのは、インコグニートincognito、無名性である。

なんでも検索ができるネット時代には、情報がないことが逆に希少価値になるだろうと。

 知られているのに無名、

という形は、すごく面白そうだ!

無名だから実力だけが勝負となる。名前に頼ることができないのだ。
もちろん、そのためには、実力でピラミッド化されるシステムが必要である。価値をどう定義しどう計るのか。

まあオセロと一緒で、
全部黒でやっといて、後で全部白に引っくり返すことになったらさぞかし爽快でしょうねえ(笑



4/18 ホンモノの見極め方

ホンモノを見極めるには、その緊張感を見ればいいということがわかってきた。

ホンモノは、ヌルい部分が一切ない。ちょっとでもそういう部分があればhateし捨てていき結晶化する過程こそがホンモノへの道だ。つまり編集である。

ヌルいというのは、緊張に対する弛緩ではなく、単に「別にそれでなくてもいいもの」のことだ。
それでなくていいものを意図的ではなく気付かず残していて、それが気にならないということ自体がセンスがない、ということになる。センスはどうやって育てていくのか

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NHKの若者仕事図鑑という番組がある。

実際にその仕事に従事する若手を取材し
その奮闘ぶりを通してその仕事の特長や大変さ、学ぶべきもの、が見える番組だ。

昨晩はまとめて再放送をしていて、そのうちの一つが「アクション俳優」だった(HP)。

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仮面ライダーディケイドの海辺の岩場での撮影。
新人俳優が戦いながら演技をするわけだが、自分の演技に手一杯で、ボサッとしていてカメラに残ってしまい、何度もNGを出す。

慣れている人は、自分がどうカメラから撮影され、どういう絵になっているか把握しているから、カメラに入らないよう場から離れたり、カメラの角度を考えてパンチやキックを受けたりする。

つまり、
自分がお客からどう見えるのか、ということに対しての価値観と、それを維持しようとする緊張感がある。
自分の状態に対し「あ、ヤバい」と感じる感覚と、それを補正する技術。

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その新人さんに対し、ベテランの俳優さんは
「まあわからないでしょうね。演技して怒られて絵を見て反省して次に活かしていくしかない」
と言われていた。

ベテランに混じっての演技だと、自分がいかにモタモタしているかが浮き出てくる。私もプロに混じっての演奏では常に赤恥状態である。だからこそ、何が違うのか、を解析し自問自答し修正し次には生かす。

つまり、ホンモノへの道とは、優れたものと自己との対比をして、その差を縮める日々の積み重ねなのである。

そしてその積み重ねを支えるモチベーションとは、いうまでもなくホンモノへの感動なのである。
これがホンモノを多く見ろ、ということの本質であるように思う。



4/23 バーに戻って一番から

TSUTAYAの会長、増田さんが昨年新聞に書いていたが、

彼は情報の供給元として本屋をやりたいと考えていて、その延長線上に現在のTSUTAYAがある、と書いていた。印刷技術の前は教会の口頭で情報が伝達、その後本が主流となり教会は廃れる、教えとは情報だったのだと。そして今はインターネットへと以降しつつある。情報を伝達するところが本屋だ、と。だからTSUTAYAはなぜ本屋なのか?レンタル屋じゃないのか?といえば、そのあたりの思想があるかららしい。

彼が以前読んだ本には、

 「人々はコンピュータで履歴を参照して購入するようになるだろう」

と予言されていたらしく、
彼はそれらに触発され現在のCCCのコンセプトに至った、とも書いていた。

どんな本なのか
すごく興味が出たが、書名が不明。
いろいろ調査してその本を突き止め図書館経由で入手、読んでいるが、

その本の冒頭に

 コンピュータの普及により情報が増大するのに対し、
 人間の情報掌握能力が増えないことによる逆転現象

というようなことが書いてあり、
このところ私が感じていたことがもう10年以上も前に文書化されていたわけで、へえ!と思った。

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かなり前だが、ドラクエの堀井雄二さんが

 皆の時間は限られている。ネットもしたいし携帯もしたい。どうやってゲームの時間を確保するか

というようなことを言われていた。
このあたりの議論は、ファミ通とかエンターブレイン系でも行われていたように思う。
個人の24時間をパイとして、どう確保するか、みたいな。

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しかし、上記の本の理論で言うならば、
個人の時間をパイとして見るのではなく、
むしろ、
爆発しつつある情報を、どう精査するのか?という課題に行き着く。

時間がないのはどうやら、野良情報やコンテンツが溢れていて、それらの中から自分の欲しいものかどうかを点検したり抽出したりすることに時間が費やされている現実ではないかと。。欲しいものだけに触れている時間が実はそうとう少ないんじゃないか?という疑念も私の中にこのところ膨らんでいる。

これを解消するのが、元livedoorの堀江さんが以前著書に書かれていた「情報のさやとり」技術のことだ。先日も書いたが、これまではメディアが暗黙にそのさやとりを行っていた。今やtwitterなど人々が注目するメディアが現われつつある。しかし「情報の爆発」は解消されていない。むしろ爆発する一方だ。

私がゲーム業界において、渋谷109化が必要(HP)と書いたのも、発信前にさやとりをすることが、消費者の利益、ひいては社会の発展につながる、という考えからだ。
さやとりができるのは、その分野に精通している人だけで、情報が溢れている現代では、あちらこちらでさやとりが行われつつも、そのさやとりが適正に行われているのか、その分野外の人にはわからない。

これまでは、新聞やテレビなどのメディアに、全分野のさやとりが行われたものが集まって淘汰され毎日並び、それをだいたい国民に共通化する、という機能があった。もちろん、記事が偏っていないかとか様々な問題がありつつも、最も大事なのは、分野外の人々がとりあえずさやとりされた情報を共有化できていた、ということである。

新聞テレビなどのメディアに情報が集約しなくなり、さやとりされたものが在野に拡散していったとき、それらを集めたり、さやとりが適正なのか一つ一つ判断するところに個人の時間が必要となってしまう。つまり、古いメディアになるであろう新聞テレビなどのメディアが持っていたさやとり情報群の競争原理と共有化機能を、補う部分がいずれ必要となると私は思う。

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仕事術の最も基本なところは、いちいち止まって判断が必要な事象を、選択できる構造(判断基準を設け、それに照らし合わせれば考えずに即決できるようにする。つまり判断の先取りである)に置き換えていくことで以後の処理速を上げるところにある。
ちなみに会社組織では、経営陣がその仕事を負い、労働者は即決作業に専念する、という分業となる。

人々の日々の生活において、何億人もいる人々が、いちいち一つ一つ判断しなければならない時間が増えると、本来人々が費やせるべき時間が、その判断の時間にいちいち費やされる。その結果、生産性が落ちるし生活に余裕もなくなる。それはpc導入により手書きよりも事務作業が増え、より時間がかかったり待たされたりするようになったことに容易に見られる。入力しにくい端末を使わなければならない、とか、表現しにくいデバイスがデファクトになっているとか。pc予約化したスタジオなんか格段に不便になってるし。

ゲーム制作機材についての基本的な私の憤りの根本も実はここにある。ゲーム制作そのものよりも、そこに至るまでの大量の無駄な作業。よくわからないエラー、不具合、作業に入れるまでの構築、言語自体との相性(*1)。。さやとりがなされていない。そこに希望ある若手を割り当てて消費している現実。早くなんとかしたい。

そしてダグラスクープランド氏が著書「ジェネレーションX」で記載したように「情報が溢れると人々は選択しなくなる傾向にある」といえる。これは情報の栄養偏向に陥る。好きなものだけ食べていたらどうなるか。情報のサプリメントが必要となる時期も来よう。

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そして、
人々の共有部分となる情報が減ると、言うまでもなく、コミュニケーションに手間がかかるようになる。同じ国に居ながら、文化ギャップが生まれるからである。
かつて電車の中での通話に拒否反応を示した傾向は、同じ場所に居ながらにして異邦人になろうとする行為を排他しようとした無意識な本能だったのだろうと今ならわかる。しかしいまや、同じ電車に乗り同じ街に住んでいても、人々はまったく違う社会に生きていることが日常化した。携帯でネットで、別のコミュニティーと繋がっている。

そうなると、あとは物理的に拘束されている(身体があり生命維持のため食べたり働いたりする必要)ことによる、異なる社会へ飛び立つことの出来ない人間の物理的な部分をどう補うか、がビジネスとなってくるように思う。他のコミュニティーから離れた場所に留まる理由は身体があるからだが、体は捨てられないし思い通りには決してならない。

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まあ、私がかねてからやりたいと思っている、身体のネット化が可能となり、
遺伝子伝達がネット経由にて満たされ、今現在のリアルな社会構造(人と出会って社会生活を営んで子を作って託す、もしくは自己作品を作って自己遺伝子を社会的に残すといった既存の方法)に拠らないことが本能に実感させることができたならば、そういった欲求による拘束から自由になるとは思う。

所詮人間は遺伝子を運ぶ経過たんぱく物質、と言ってもいい(*2)ので、
別途の運べる手段が本能的に実用的と判断された(=世代交代を経て定着した)ならば、現在の社会生活に依存している遺伝子伝達を促進させようとするサイン(さびしいと思ったり落ち込んだり、都市に集中したり、出世しようとしたり争ったり)などからも解放されるだろう。いい悪いはわからないが。・・・あ、もはや人間じゃないかそれは(笑


このページでは私の成果、発見のみ記述しております。





















































































































































































































































































































































































































































※1
例えばオブジェクト指向の特性では、例えば、ジャンプと命令すれば、そのキャラごとのジャンプを実行させることができ、ジャンプごとの違いを気にしなくていい、という利便性だが、ゲームにおいてはそのジャンプ自体の磨きこみ自体に時間がかかる。またジャンプにしても、そのジャンプと地形との相性など他との絡みもあり、完全に隠蔽化が難しい。結局隠蔽化したはずの場所がメイン作業になる。クラス同士が相互インタラクティブなのだ。なので、それを上から監督する部分が必要になってきてしまう。
結局、前世紀のテクノロジーの上で作られたゲームのフォーマット自体が未だに残っていること自体が問題なのかもしれない。





※2
藤子F不二雄氏短編SFの、「おれ夕子」的な(笑)