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北斗の拳の極意は、
人間の潜在能力の残り70%を使うこととある。
そのように
人間の脳の潜在能力を30%に規定し制限しているのは、五感からの入力が原因である、とわかった。
それらは物理法則に基づいているがゆえ偏っている上に、
物理法則の限界を超えられない。
これが、脳の潜在能力を拘束しているのだ。
よって外界信号を絶つことにより、
出力を伴わない内部活動(発想、整理、思考)に限っては
潜在能力を発揮できることになる。
また
本来ならば、脳は現在の人体構造以上のコントロールができるはずだが、
遺伝子の突然変異による可能性は、文化的タブーにより妨げられている。
(例えば、手が3本や目が後頭部にあるような子供は生まれているはずだが決して生まれたことにはならない)
そういった文化的タブーにより閉ざされている外部筋肉コントロールの可能性は、
インターネットを利用した身体の地球化、
が最も実現可能性が高いと私は見ている。
これはかねてから私が言っていることだが、免疫の問題のクリアと、防壁(ハッキング対処)※1および免許システムの確立が必要になる。
ぜひ自分の体で試してみたい案件の一つだ。
ファミコンなどゲーム黎明期でのロック(=鍵。ゲームを進行させる要素)は、単純にプレイヤーの腕だった。
上手くなれば先に進める。
これを今日正統に受け継いでいるのが、shootingとか格闘の分野だとわかる。
RPGなどの登場で、
ロックは、お金が溜まらない、レベルが上がらない、アイテムが足りない、人の話しを聞けてない
といったものになり、
さらにソーシャルなどになると、一時サンシャイン牧場とかで物議をかもし出し、現在に至る、
プレイヤーの金銭がロック、
つまりお金を払えば進める、などとなる。
つまり、
プレイヤーの腕や技術、瞬時の判断といった、プレイヤー内部に蓄積する無形のもの
から、
アイテム、パラメータなど外部で目視できモノとして扱えるもの
となった。
トランプやオセロやパズルなど、古来のゲームを見てみるとわかるが、
それらは、
ただのカードであり、コマであり、
ルールを知らなければ、ただの小物でしかないものだ。
つまりゲームは、
それらではなく、それらを使って遊ぶ人たちに蓄積していた。
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このところ、アナログシンセを使って曲を作ったりしていると、
メロディーにそぐう音色を調整したりするようになった。
弾いていて「キャー気持ちいい!」という曲ができる。
しかし
ふとピアノで同じメロディーを弾いたとき、
シンセで弾いていたときのスリルがなく、
それを出そうといくら鍵盤を叩いても、その快感がでないことがある。
これは曲のスリルが、
メロディーや、自分の鍵盤を弾く過程ではなく、
音色に蓄積しているケースなのだと気付いた。
本来、
音楽を演奏するときは、
楽器を強く叩いたり弱く叩いたり弾き方次第で
音色のニュアンスをコントロールし、スリルを生むものだが、
音色が作れることによりスリルを担うことが可能になった。
これにより、
スリルを表現する演奏技術が衰えてしまう危険がある。
思えばゲームでも、
ボタンを押しただけでハデな技と音で爽快感が味わえること、にも似た危険がある。
つまり、
ボタンを押す行為そのものは、鍵盤を弾くのと同じく、
その挙動そのものがトリガーとしての意味しかない、ということだからだ。
どう押すか?がなくなっていく。つまり能動ではなく受動(演出の消費)になっていく。
もちろん、メロディにそぐう音色を調整したり
爽快感を発動できる演出それら自体は、
作り手側としては自由度が広がることだから、
よって、大事なのは、
リスクを把握することになる。
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テクノロジーの進化により、
私たちは自分たちが努力し磨かなくても、
プロパティを買うことで力を、ある意味才能を、装備できるようになった。
つまり、内から外になった。
外にあるものなので、買ったり売ったりできる。
自身の技術や鍛錬などよりも容易で、確実に手に入るものになったが、
一方で、
自分の欲望を完全に満たすためにコントロールする手段が失われていく。
なぜならそれらは完全にはカスタマイズできないからだ。
手段が失われるということは、
技術が失われるということだ。
コントロールできないということは、
満足できない、ということになる。
満足できない不完全なものは、不満を呼ぶ。
不満は次の消費を生む。
これが今の消費社会の正体なのだと思う。
牙を次々と抜かれ、次の消費のために適切な体にされていっているのではないか。。
それがふと思った疑念である。
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モノ作り側に居る意識
があるならば、
そういった蓄積するものが、
外なのか内なのか、
を
見極めることがすごく大事なことに思う。
モノ作りに携わる人間ならば、自分に蓄積したものが武器となる。
外に蓄積するものは、すべて消費であり、自分のものにはならないのだ。
11/7 5:29 モノ作りのおける、正しい、とは |
モノ作りにおける、正しい、とは、
対象となるものが最大限機能するようにしているか、
である。
例えば、ボーカリストならば、
まず、自分ののどが最大限鳴るように歌うことが正しい。
もちろん、鍛錬でさらに異なる種類の鳴りの可能性もあるわけだから、
いずれ、鳴るように歌う、ということもあるだろう。
その上で、出したい声に寄せていく。
楽器も同じで、その楽器がちゃんと本来の音で最大限鳴り響くように演奏する。
正しい鳴らし方がわかっていれば、その良さをキープしながら自分の表現に寄せていける。
正しい鳴りは、潜在的に人を魅了するので、芸は身を救う、ことになる。
そして
もちろん、演奏する本人も居るわけだから、
本人の特性が最大限発揮できるように、つまり機能するようにするのが正しい。
正しさは一つではないのでバランスとなる。
どうしたら自分が、気持ちよく、思いっきり演奏できるのか。
そう考えれば、どういう楽器が自分の特性を生かせるのか?
と考える時期も出てくる。
楽器には数限りない種類がある。
楽器には、その楽器を鳴らすため習得すべき演奏の仕方や技術があり、ただポロンと鳴らしただけではわからないことも多い。
そして楽器も個体差がある(同じ品番の楽器でも鳴りが違う)。
つまり、そうやって考えると、すべては出会いなのだ。出会えただけで有難いことだ。
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そして
音楽は一人で演奏するわけではない。
他の演奏者との音がブレンドされ、一つの響きを作る。
たとえ
一人で演奏したとしても、音は自分の楽器だけで鳴るのではない。
広いホールで鳴らした音、山で鳴らした音、カタコンベで鳴らした音、どれも違う音になる。
環境が違えば音が変わる。お客さんが入れば音が吸われてまた変わる。
音がぶつかって跳ね返る壁も楽器の一員になる。
つまり、何事も、自分一人ということはない。
自分の音が最大限機能できる技術を持った上で、
他者や環境の中で、機能するように演奏する技法、それが正しい演奏ということになる。
「羊達の沈黙」という映画がある。
大変頭が良いが精神異常者であるレクターと、FBI見習いの女性とのやりとりを小気味良く描いた映画だ。
この種の頭よさというのは「エネミーオブアメリカ」に出てくる元NSAブリルの技術者的な小気味良さにも似ていてすごく好きだ。
夜中の番組での紹介を見かけて、
その留置所のシーンにすごく惹かれてすぐ見てみた※2。
ラストシーンで、レクターがゆっくりと歩いていくシーンがある。
それをみて、そうか!と気付いたことがあった。
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レクターが帽子を被りゆっくり歩いていくだけのシーンだ。
だが、見ていて何をするかハッキリ判る。
どういう思いで歩いていくのか、このあとどうなるのか、たくさんの無形の情報が自然に次々と湧いてくる。
これを言葉で説明しても面白くもなんともない。
なるほど映画、とは、身体表現で、
言葉で説明できないことを伝えるメディアなんだ、とわかった。
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そして、だからゲームのムービーはスキップが必要だったのだ、ともわかった。
言葉で説明できることを、そのままムービーやモーションキャプチャで置き換えただけだから、ちょっと見ただけで意味がわかってしまう。言葉で説明できることは、長いシーケンスを必要としない。もう何をやるか判りきったことを延々と見させられる退屈。つまり言語化できることは、映画や動画である必要がない、ということなのだ。
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だからこそ、映画という形式である意味がハッキリした。
言葉にはウソが含まれがちで、
ちょっとしたしぐさや挙動には、本人の本質が垣間見られるものだ。
よく女性が男性の浮気に気付くのと似ている。
説明できないが、あやしい。それは所作でハッキリわかる表現だからだ。
体の言葉、つまり身体表現を使って
言葉にできないことを明確に伝えるメディア、それが映画の特性、武器だということになる。
これが判ると、普段何気なく見ているドラマなどが、
説明できることをそのまま動きや表情に置き換え動いているだけなのが判る。ゲームで言うモーションキャプチャーだ。体の言葉を失っているだけでなく、映像そのものの武器をも失っているのだ。
セリフや言葉などの説明がなくとも、「ハーンなるほど〜」と察せられる動き、それが演技の面白さだし本質だと思う。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
※1
脳への他者のハッキングを防ぐ装置を攻殻機動隊では「攻性防壁」として描かれていてよく予見していると思うが、他者の脳に入って考えを読むことはプロトコルが違うため残念ながら物理的には不可能
※2
映画館でも耐え切れず途中で出てしまうことが多いので、魅了される映像に出会う機会は大事にしている。
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