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私がかねてから注目しているバイオリニスト庄司紗矢香のトップランナー収録に
原宿からタクシー。なぜならば昼からせんがわに出演するためで、機材があるからだ。大人になったものよ(フッ)
写真は虎の巣 の若きギタリスト岡ちん(笑)
クラシックはそれほど興味はないのだが、庄司バイオリンは、情熱大陸に出演されたときの海外でのピアノduoでの、速度のある弓引きがそうとうスリルでもう何度見たかわからない。
ところがCDを買って聞くとこれがもうつまらない。。オレの耳は節穴か?それとも情熱大陸の編集が素晴らしいのか?という積年のもやもやを、「ならば目の前で見て聴いてデバッグするべし」というわけで今回にいたるわけである
幸い、目の前数メートルでの距離でその音を体験できた。もう!音のスリルたるや、鳥肌ものだった。すごい。
ただ、ピアノがおばちゃんでバイオリンの投げたスリルに対し、空気の抜けた音で返すのでイライラ。
また、生演奏ゆえ本人のミスもハッキリわかったので、納得してないだろうなーと思ったら案の定撮りなおしを希望されていた。
この生と放送での音の違いもデバッグ対象になるな、と思いちょっとラッキーな気分。
(後日見た放送ではまったく問題がなく、なるほど、生のよさはもろ刃の剣なんだな、と思った次第)
このバイオリンのスリル、をなんとかドラムで表現できないかなあ、と思ったり(笑
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時間の関係で最初のライブのみでNHKを出る。トーク部分は残念ながら諦めた(この時代にスリルをどう探すのか、とか聞きたいことは沢山あったのだが)
ジムオルークが入れないという情報を得たので、スタジオに1時間入ったあと、せんがわへ。
NY在住のチェロリスト藤原清登さん主導による、即興演奏に参加。
開場の前に、選定したミュージシャンに演奏をさせ、音を会場に響かせてから、開場をさせていた。
「おもてなしの音楽をね」
という一言に、エレガンス、海外ならではのもてなしの心を見た。
これは、今、日本人がもっとも忘れている心ではないのか!
そして
他人にこうした気遣いができる、というのは大人、ということだ
最後全員が舞台に上がって演奏だがこれがすごいことになった。即興において多人数で成功、というのは非常にまれであるので、これは奇跡だなあと思った。
私はスネアをムチのようにピシピシさせていた。もっと走れ!ハイヤー!みたいな(笑)
この得がたき瞬間、それが即興の醍醐味でもあるのだ
数日前ウチの格闘老人のギタリスト玉と夜中に数時間も長電話して、ここ数日ずっと音楽とは何か、自分の活動とはなにか、考えている。
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先日のせんがわでの出演で気付いたのだが、私が即興に限らず、人と合わせるときに重視するのは、
他人との交流で、何が生まれるか、
だ。
自分が持ち合わせている技術を使って音やフレーズやリズムを出すだけでは、自分だけであり、
周りはそれに合わせるだけで、何も生まれない。皆で好き勝手に歌っているだけ、つまり、カラオケをしているだけになる。
持ち前の演奏技術を取り出して使うだけなら、それは「消費活動」になる。
例えば即興においても、まあ、こうきたらこう弾いておけ、みたいなフレーズなりの方法がある。
もちろん、そうすれば見た目には体裁は整うのだが、それを超えることはないし、誰がやっても
まあ同じトーンにしかならないが、不思議と人はそれを無意識に選択する。
私は好奇心が旺盛なので、やはり、その相手ならではのリズムとかフレーズとかをすごく期待するし、
それに私がどう絡むかとかが醍醐味に思うから、そういったことを避けようとする
自分の持ち前の技術はどんどん消費、つまり飽きてしまい、つまらなくなる。
そのためには、やはり日々、自分の面白いと思えない、しかし他人は面白いと思っているもの、を、
面白いと思えるようになるための、努力が必要となるように思う。
今幸いjazzに興味が出て(※1)おり、感銘も受けているので、jazzのもつアナログさ(※2)や即興の在り方に先人が模索した事柄を
、これ幸いと修得する日々になっている。
ロックより先にjazzがあり、それを土台にロックが成り立っている。世の中のすべての音楽は、先人の構築させてきた、今生き残っている音楽の上に成り立っているし、すべて含んでいる。
このところ私はそういったルーツ音楽をどう自分に叩き込むか、脳へのトレーニングを、自分の確立した理論とメソッドにより敢えて意図的に行っている。それは、もし他人とあわせたとき、知らない音楽のジャンルには合わせることが出来ないことを避けるためだ。
つまり、それは、
自分が他人と合わせる上で、自由であるため
である。
料理で言えば、下ごしらえ、だ。
今仕事でやっているプロジェクトでも、
敵のアルゴリズムについて、エンジンの仕組みについて、ゴチゴチの組み方はしない。
ああしたいな、こうしたいな、という私だけでなくプロジェクトに関わっている人が直感的に思う欲求に対して
対応できるようにするためだ。
これも
自由のため
である
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現状、私が捉えている、創作活動をする上でキーとなる人間の欲求は、
意識
本能
体
の3つから発せられる(※3)
意識、とは、ああしたい、こうしたい、と考える欲求である。ただし、これは衝動を除く。
本能、とは、遺伝子伝達のために必要な行動を起こすための衝動、である
体、とは、生体が死に至ることなく生存するための必要な行動を制御する
これらは私の経験と検証に基づく定義で、
詳しく説明すると本が1冊書けるほどなので、ここでは詳細に説明しないが、
意識以外(本能、体)の欲求を満たしてやる必要がある。それは意識が選択できることであり、
私はそういう行動を
本能にエサをやる
と呼んでいる。
これを怠ると、
本能が、意識にとって不本意な行動、を起こしたり、体が停止してやりたいことができなくなる。
エサをちゃんとやる事が大事である
3つに分類しているのは、それぞれ、エサの種類が違うからである(笑)
まあ、慣れていないと、めんどくさい(※4)ですが(笑
そうすることにより、
自由をキープできる
のだ。
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仕事が忙しかったり、何かの人間関係で問題が起こったりで、
自分の活動が妨げられるなら、
そういった、仕事のこととか人間関係のこととかを、解決しようとすることこそが、
自由を得るための闘いということになるように思う。
これも
自由のため
である。
すべては「自由」のためなのである。
私の家系には風習があって、
家族が興味を持っていることについて、他の人が新聞記事なりテレビなりをみかけたとき、
それを知らせたりとっておいたりする、
という不思議な風習がある
うたうたを作ることになった会社には、妹が「お兄ちゃんここがいいんじゃない?」と渡してくれた会社の社員募集だったし、
ゲームのこと、音楽のこと、かなりの記事や番組などについての情報は、家族からもらった。
それらは、
いとも自然になされていて、私もそれを受け継いでいて、友人や知り合い、挙句は仕事仲間に
その人が好きなものを上げたり渡したりする。
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根底にあるのは、自然に学ぶ姿勢である。
勉強とか肩を張るのではなく、生活とともに自然に存在する、興味あるものをより知る、学ぶという姿勢。
相手が興味がある事柄について、よりそれを深めてあげたいし、それで相手が喜んでくれれば嬉しい。
私の場合は、それをさらに一歩進め、相手が今興味を持っていることを、さらに深くするための、アドバンスな関連のものを渡したりする。
もちろん、アドバンスなものなので、相手にとっては興味がないことも多い。
でも、それはすごく必要だ、と私が推敲したもので、ぜひともそこに至って欲しいわけなのだ
が!
私は、それを、
すごく面白く思えるように、話したりお膳立てたりはなぜかしない。
それがなぜか、
今日思い当たったのだ
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それは、
あなたにとって必要なもの、は用意したんだから、あとは頑張ってね、という姿勢なんだと。
それが面白く思えなかったり、意味を感じられなかったりするだろうが、
でもそれは、あなたが頑張って習得すべきものなのだと。
わが家系の遺伝子として存在する、自由であれ、ということと同時に、
自分の手でなしとげなさい
ということを、仲間にも暗に求めているのであった。
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このページでは私の成果、発見のみ以外も記述しております。
※1
jazzの面白さを知りたいと思っていたが、結局、こうして興味を持ちえるまで10年以上はかかったことになる
※2
音色という観点でjazzからみれば、ロックはデジタルである
※3
実験と実践により、ここに至った
※4
うまく行っている人は、こういうことを本能的に行う。
私は理論的な思考をする人間なので、そういう本能的な活動が欠けているため、意図的に行わないと欲求的栄養失調になってしまう
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