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コモさんライブを見に横浜motionへ。
以前お世話になり、もう10年来ファンのコモさんが、ブラジルからドラマーを呼んでのライブ!これは見逃せない、とのことで横浜まで。
このところセッションに参加していると、ジャズだけでなくボサなリズムも要求されることが多く、修得の必要性を感じていた。
しかし言うまでもなく、CDとかを聞いているだけではまるで会得できないわけで、その生なるリズムを体得したい!という目的もあった。
到着が遅れた関係で正面の席が確保できず。ところが、店員さんが案内してくれた席が実は影のアリーナ、なんとドラマーの裏だったのだ!
ボサノバ、というのは、パターンとしては、タンタンタタンタンタタンタンタン、みたいにリムでアクセントを入れる。なので、そういうリズムかと思っていたし、大抵のドラマーはそうやって叩いている。が、実際ブラジル人の彼が叩くレガートは、タタタタタタタタ・・・、というアクセントのない永続するリズムだった!もちろん右手もアクセントのない動きで、すべて見ることができた。なるほど、アクセントはあくまでもアクセントで、ボサノバのリズムの根幹は永続するクリックなんだ、ということが実感できたのは大きな収穫だった。
さらに帰りの電車の中で、バスドラは、16のドドではなくて、8/3のドドなのだ、とひらめいた瞬間、手と足でタカタカそのリズムを猿のように刻みつづけてしまった。すごいことを発見してしまった!と
以前「うたうたウ〜」(※1)のとりまとめをしていた(するハメに陥っていた)とき、OPUSの鈴木さんが、1面途中のサンバ面の説明を夜中私に語った話(※2)で、「中学生のとき、夜中にふとひらめいて、サンバのリズムを一晩中叩きつづけたことがあり、耳が開いた」「このソフトで遊び手の耳を開かせたい」と言っていた。一晩中、そんなことってあるのかいな、と、そのときはわからなかったが、まさか自分が同じように猿のごとくパタパタ叩くとは思いもよらなかった。サンバとは、人をそうさせるリズムなのだろうか。
強烈な体験が一瞬にして人生や行動を変える。書を捨て街に出ようとはまさにこのことなのだ。
吉祥寺スターパインズにて。歌人、いつのえみさんとの共演当日。
3月にとりあえずスタジオに入って、なんかこれはすごい!とか遊んでいるうちにいつのさん単独の初公演が決まり、萩原朔太郎の竹、等々、いい感じにドラムが付いていた詩のいくつかを10分ほどやることになった。
ところが、公演が近くなるに従って、なぜか、いわゆる「飛べない状態」になった。これまでどうやってあわせていたか、わからない。
以前はまったく正反対で、頭で完全にコントロールしていたため、手や足をどう動かしていたかすべて記憶があり再現が可能だったが、パニックになると吹っ飛んでしまう問題があったので、逆に体に任せることを鍛錬していたのがこのところ。それが裏目に出たのだった。
そこで、散々錯誤したのちに、禁じ手にしていた、パターンをfixし、その完全コピーをすることにした。これは、その場その場のナチュラルに生まれるパターンを諦めることを意味するのだが、大きなリスクを負わなくてすむ。
最初は、あまり大きな公演と思っていなかったので、リスクがあっても即興で生まれる大きな奇跡が実現できればいい、と思っていたのだが、共演の歌人・穂村弘氏がメディアにかなり露出している有名人であることがわかり、そちらのお客も考慮しなくてはならなくなった。
せっかくドラムとの(ある意味無謀な)共演を選んでくれたいつのさんとの舞台を失敗するわけにいかない。しかも最初の単独公演だ。しかしいつのさんファン以外のお客も来る。一般の方はコアな即興を許してはくれない(※3)から、ハイリスクハイリターンのままではまずい。
たとえば「竹」に合わせたドラムによって、いつのさんも私も、歌とドラムが合うんだ、という確証が生まれたのだが、
それを、音楽をやっている人に聞かせると「すごい、どうやってるのか?」といわれるのに対し、
音楽をやってない人に聞かせると「合っているように聞こえない。キメをあわせた方がいいんじゃないの」
とか言われてしまう。
もし本番でそう思われたらそれが聞き手のノイズになる。歌がだいなしだ。その可能性は出来る限り排除しなければならない。なぜならば、伝えたいことが伝わって初めて表現だからだ。伝えたつもり、ではダメだ。
庵野秀明氏が「進行管理とはリスクマネージメント。沈没しないためのノウハウ」とインタビューで語っていたが、つまり、歌とドラムの融合ということを最低限成立させるために何をしたらいいか、つまり沈没しないためにどうしたらいいか、ということを直前に突きつけられた状態になってしまい、そして、悩み、模索し、鍛錬することになったのだった。まさか音楽で、お仕事なメソッドを適用しなければならなくなるとは。。
音楽とは、演奏者同士の以心伝心の奇跡であり、観客はその幸せに共鳴し恩恵にあずかる、というのが私の理想だし、そこににじりよる鍛錬をしてきている。
いつのさんが「ドラムとの共演は事件になりますよ」とおっしゃってくれていて、実際そうだったらしかったが、成立させるためのリスク(※4)を負うことを意識してやらなければならず、それだけが残念でならなかった(※5)。
ただ、私が効果音にせず、いつのさんの詠みのリズムと息遣いに絡むリズムになるよう、残響させない非常にリスキーな叩き方をしていることをわかってくださった方もいて救われる。シンバルには、ガムテをぶら下げる、というその場で発見した方法で残響をコントロールしたくらいだし。ダメシンバルがいい音になったのにはちょっと驚いた(笑)し、あとのお茶会で、シンバルの音がよかった、と言われたことも嬉しかった。
一方で、いつもの音楽仲間にはピッタリハメすぎ!と批判されもした。うう・・・。
ただ、トータルでは大変な反響があり、一安心!というところ。よかったよかった!
次回やるときは、いつのさんと自由に合わせて生まれる奇跡、をそのまま観客に体感させてあげたいところだ。
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このページでは私の成果、発見のみ記述しております。
※1
ゲームソフト「うたうたウ〜」playstation、ENIX2000
※2
私がうたうたウ〜に参加したのは開発後期だったため「なぜ必要なのかわからないが決まっている仕様」がたくさんあり、それらがゲームをまとめる上で妨げになっていた。
そこで、ひとつひとつの仕様の、目的をわかっている人を探し、ヒヤリングし、コアとなる目的が分かればそれを損なわないように改変し、たいした理由でない場合は削ったり変更の許可をもらう、という地道な作業を全体にわたってやっていた。
※3
たとえば現代アートとか見る人はある程度「わからないかもしれない」という覚悟の上で見てくれるため、わからなくても頑張って理解しようとしてくれるのだが、一般の人は、わからないと捨ててしまう。ゲームユーザーと非常に似てるのだ。その怖さは骨身にしみている
※4
演奏者は面白くなくても、観客は満足する方を取る、といういわゆるオシゴト的な方法論
※5
宮崎駿氏「正直につくんなきゃいけないんですよ、裸になって。(略)隠して作るとそのしっぺ返しが本人だけに来るんですよ。自分にダメージが来るんです。だから映画作れなくなりますよ」NHK TR 07年3月27日放送から
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