朝日新聞1994年12月24日夕刊「ビシネス戦記」より抜粋 一生感動、一生青春 <下> 一九七二年の一号店開業後、軌道に乗るまでしばらくかかりました。その間、借金返済のため、三部屋ある分譲マンションから二間の賃貸アパートに引っ越しました。二つのタンスだけを残し、ピアノなどの家財道具を全部処分したりしました。ぎっくり腰で倒れたのもこのころです。床に伏せていると、日興證券時代の良い思い出ばかりが頭をかけめぐる。家族も苦労しました。長男は円形脱毛症になったくらいです。 店数はうなぎ登りに しかし、いったん裸になると、良い話が舞い込んでくるものです。母校の日大を訪ね、出店許可をお願いした時のことです。大学紛争以来、業者は学内に入れず、無理を承知の上でした。恩師の力添えで、教授会で認めてもらいました。七三年四月、東京・水道橋校舎の地下食堂の一角に店を開きました。約十平方メートルの台所とカウンターだけでしたが、家賃や光熱費はタダ。安く売ることが条件でした。ここで利益を上げ、商売のめどが立ってきたのです。 同じころ、フランチャイズの話があり、東京の東日本橋と静岡県三保で二店オープンしてもらいました。しかし、事前の話が不十分だったので、約束事を守ってもらえなかった。焦げたパティを出したり、開店が遅れたり。一年もしないうちに、やめてもらいました。 七四年ごろから、年間五店から十店のペースでフランチャイズ店が増えました。最初のうちは、四、九、十三といった数字は嫌で、飛ばしました。七九年に百店を超えてから、うなぎ登りで増え、八三年に二百店、八五年に三百店となりました。 モスのオリジナル商品についてお話しましょう。テリヤキバーガーは七三年春に生まれました。日本人にはしょうゆが欠かせないとの思いが原点です。日系人が経営するロサンゼルスのレストランで食べた照焼きステーキを参考にしながら、みそやみりん、マヨネーズなどの調味料や、野菜をさまざま組み合わせました。試食したお年寄りが「おいしいね」と喜んでくれたので、すぐに売り出しました。他社も後に追随しました。 出張先のロスで急死 八七年に発売したライスバーガーは、米国の系列レストランが、チキンの挽肉を照焼きにして、ご飯と一緒に出したのが、ヒントになりました。八三年十二月、精神的にショックを受けました。創業時から苦労を共にした吉野祥君が、アメリカ進出準備のため出張していたロサンゼルス郊外で急死しました。その知らせを、到着したばかりのロスの空港で聞いたのです。遺体を日本に運び、葬儀を営みました。 弔辞の一部です。「私の心と身体の半分を占めていたあなたが、忽然と消え去った今、私はむなしくうつろです」 しかし、時間が解決してくれました。「世の中に認められるためには株式の公開企業にならなくてはならなければ」と考えました。慰霊のつもりでした。準備をすすめ、二年後に外食フランチャイズとして初めて店頭登録しました。 海外進出に取り組む 八六年に五百店を数え、翌年には日本マクドナルドの店舗数を抜きました。八八年には東証二部上場も果たしました。 九〇年、「五十歳で社長を辞める」という前からの公約を四年遅れで実行し、会長になりました。若い人に経営を任せ、私が大事な決定だけをする形にしたかったのです。 最近、ハンバーガーチェーンにも価格破壊の動きが広がっています。「モスは値下げしないのか」とよく聞かれます。 日本人は、こと食べ物にはクオリティーへの関心がとても強い。多少高くても、おいしかったと満足できるものを選びます。私たちは「品質を上げることで、価値を高めていこう」と決めました。今後も価格を下げるつもりはありません。 すきな言葉は、「一生感動、一生青春」です。青春とは、肉体的なものではなく、精神的なものです。明るい希望や夢があれば、いつでも青春でいられる。 今、アジアを中心とした海外進出に取り組んでいます。今月五月には、中国・上海に「莫師漢保」が二店オープンしました。あわてず、われわれのペースで切り開いていきます。将来はさまざまな外食ビジネスを手掛けたいと思っています。 (註釈)櫻田さんは97年秋に他界されました。残念です。 |