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朝日新聞 2009年 7月 17日 「もがきながらも、前へ」vol.5 宮本亜門(前)、より抜粋




社会で生きていけない人間なのではないかと、いつも心のどこかで自分を責めていた。しかし、音楽に身をゆだねて体を揺らしている瞬間だけは違った。「すごく自分を感じられた」。これだと思った。

演出家になると決めて復学し、大学へ進む。オーディションを受け、端役をもらうことからスタートした。「自分のけいこが終わってもその場に残り、演出家は何をするのか、どんなことを役者に言うのかを見て学ばせてもらいました」

21歳で母親が亡くなった。生前の「ブロードウェーは観ておきなさい」という言葉が背中を押した。六本木のショーパブで深夜、女の子たちにダンスを教えるアルバイトをし、お金をためてはニューヨークへ何度も行った。現地ではダンスレッスンを受け、当然ブロードウェーにも足しげく通った。

「行く度に感動でした。こういう世界があるのだ、こういう生き方があるのだと」

振付師として仕事が入るようになるが、平行して始めたジャズダンススタジオは経営に追われる始末。「このままでは一生演出家になれない」という焦りがあり、大学を中退してロンドンへ。本場の舞台を観たり、ダンスレッスンをして一年半ほど過ごす。ところがある朝、驚いた。号泣している自分がいたのだ。

「結局何も変わっていない。ロンドンに逃げていただけだ」


帰国し、舞台の企画書を書きまくり、あちこちに持ち込んだ。しかし反応は冷ややかで、どこも取り合ってくれない。友人に愚痴ったら「あなたはこれまで何も演出したことがない。認めてもらえないのは当たり前。認めてほしいなら何か作ってみなさいよ」としかられたんです」。言われた通りで、自分で作ればいいんだと気付いた。

それで実現したのが「アイ・ガット・マーマン」だ。会場の手配、出演者の交渉、チラシ、DMのあて名書きなどすべて自分で行った。3日間の公演予定で初日は150人の会場が半分埋まる程度だったが、徐々に増え、再演が決まり、結局半年続いた。しかも翌年には「文化庁芸術祭賞」を受賞。とはいえ、これで成功というわけではなかった。紆余曲折、七転八倒の人生はその後も続く。それでも演出家を辞めようとは思わなかった。