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岡本太郎「歓喜」(ニ玄社)、P92-P93から抜粋







一日、「伝統芸術の会」にお誘いを受けた。

その日はお茶がテーマで、利休の墓のある大徳寺・聚光院に、京都の知識人たちが集まるのだという。行ってみると、お茶席に、年配の男女をまじえた三十人ばかりの人たちが、互いに席を譲りあったりして、ひどくお行儀がいい。

一応、専門家からお茶の歴史や精神についての説明があった後、討論に入った。黙って拝聴していたが、そのうちに意見をもとめられた。場所がらを心得て、おとなしく、---お茶の作法もお茶室も結構だけれど、何といっても時代ばなれがしてる。せっかくお茶の味はすばらしいのに、あんな固くるしい約束ごとで現代生活にひろがっていかないんじゃつまらないということを話した。別に発見ではない。当り前の、現代人としての実感である。

実際京都では宿についても、普通の家をちょっと訪問しても、まずお薄一服だが、東京あたりの生活のテンポと雰囲気の中で誰があんなことをやれるだろう。ごく特殊な人のお道楽になってしまう。お茶道も文化財保護の意味でのこすのはいいかもしれないけれど、芸術としてなら、もう少し新しい時代に即したやりようもありそうなものだ。創造性のなさ、無気力---といってちょっと声を切ったとたんに、発言があった。遅れて来て、後の方に座をしめた年配の紳士。大学の文学部の教授だと後で聞いた。私だとは気がつかなかったらしい。いささか心得た高飛車な調子で、

「唯今の御意見には異論がある。お茶などというようなものは、その道に十年精進してみなければ解るものではありません。ちょっとのぞいたくらいで、不キンシンなことを言うべきではないと思う。」

お決まりのテだ。使い古された文句だが、みんなこれでヘエッと引き下がってしまう。ところが相手が私だったから、具合が悪かった。

「そりゃおかしい。そんなことを言うなら、今僕の言った意味がお解りになるには、あなたは僕を十年やらなくちゃならないってことになる。」

つつましやかな座に、一瞬、笑いがおこった。すべて十年の修行がいるとしたら、いったい芸術家や評論家はどういうことになるのだろう。たとえば百姓を描くのには、十年畠を耕さなきゃダメだとか、小説家がオメカケさんを書こうとしたら、オメカケさんにならなくちゃ、なんて珍無類だ。

批判だってシンラバンショウあらゆることに向けられる。それは人間の情熱だ。しかしいまのデンでいったら、身体が何万あったって足りやしない。つまり何ごともすべきじゃない、言うべきじゃないってことになる。しかも一つのことだけに十年くい下がっている間に、すべての現実は進んでしまう。それじゃ世の中に追いつけっこない。ならもういっそのことすべて諦めて、墓石の下にでももぐり込んじゃった方がいい。---こんなことをくどくどいったのは、芸道社会に限らず、とかくこういう人たちは他愛のないエセ論理で素人をオドカシ、芸術の問題をそらしてしまうからだ。

私はけっしてそうは思わない。まったくの素人がお茶について発言しなきゃいけないのだ。なまじその道に苦労した目は、あぶない。知らずにゆがんで、平気でにぶってる。素人が素直に直感で見ぬくものが、案外本質であり、尊い。お茶が芸術であるならば、そのような素人を相手としてこそ、新鮮に活かされていくんであって、もし玄人だけでいいんなら、こんな会をやる意味もないんじゃないか---

論理だ。きわめて明解にポンポコいったら、相手はいつの間にか、席をけって?帰ってしまっていた。