村上龍「ラブ&ポップ」より抜粋 「ヒロミ、どうかしたの、顔色悪いよ」 大丈夫、そう答えてから、援助交際しかない、と単純に、そう思った。ちょっと、来て、裕美は横井奈緒の手を引いて、宝石売り場に戻った。今日中に手に入れよう、と決めた。 大切だと思ったことが、寝て起きてテレビを見てラジオを聞いて雑誌をめくって誰かと話しをしているうちに本当に簡単に消えてしまう。去年の夏、「アンネの日記」のドキュメンタリーをNHKの衛星放送で見て、恐くて、でも感動して、泣いた。次の日の午前中、「バイト」のため「JJ」を見ていたら、心が既にツルンとしているのに気づいた。「アンネの日記」のドキュメンタリーを見終わって、ベッドに入るまでは、いつかオランダに行ってみようとか、だから女の子の生理のことを昔の人はアンネっていうのか、とか、自由に外を歩けるって本当は大変なことなんだ、とかいろいろ考えて心がぐしゃぐしゃだった。それが翌日には完全に平穏になって、シャンプーできれいに洗い流したみたいに、心がツルンとして、「あの時は何かおかしかったんだ」と自分の中で「何かが、済んだ」ような感じになってしまっているのが、不思議で、イヤだった。今日中に買わないと、明日には必ず、驚きや感動を忘れてしまう。きのうはわたし、ちょっと異常だったな、で済まして、買ったばかりの水着を実際につけて、脱毛の範囲を確認したりしている自分がはっきりと想像できた。 インペリアル・トパーズは十二万八千円だ。 |